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淀川の舟運

京都と大坂、さらに瀬戸内海を結ぶ淀川には、中世以来、山崎胡麻船、石清水(いわしみず)八幡船、淀船、伏見船などが就航していた。なかでも石清水八幡に属した淀船は、淀川だけでなく木津川、宇治川の独占権を握っていたが、信長入京後はそれまでの二十石船のほかに、大型の三十石船も許可された。秀吉の朝鮮出兵のさいには徴用されたが、そのころには100艘ほどが運行していたらしい。
その後、宇治川の水流変更によって伏見港が建設されて舟運は一段とよくなり、1598年(慶長3)には朱印状が与えられた。なお、このとき「過書船(かしょせん)」という名称が与えられ、旧来の淀船もこのなかに組み入れられた。ちなみに過書とは、中世において河関通行税免除の特権を意味する。過書船には積荷の種類や運行区間によって、人乗せ三十石船、天道船(てんとせん)、青物船など数種類あった。人乗せ三十石船というのは、28人乗りで船頭4人というのが規則で、ふつう一日二回、大坂−伏見間を往復した。これらの旅客を目当てに、枚方(ひらかた)では「くらわんか船」と呼ばれる家康公認の船が、餅や寿司などの食物を売ったことは有名である。
なお、関ヶ原の戦では東軍に味方し、淀・伏見の情報を家康に伝えた功績により、1603年(慶長8)再度、朱印状が交付された。さらに、大坂冬の陣では淀の二十石船が前面的に協力し、生命の危険をかえりみずに戦場近くまで運行したが、動員された船は延べ3560余艘、船頭7220余人を数えたという。


関連図版: 宇治川と淀川の合流地点付近の風景

解説: 河川交通

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