

濃尾三川の舟運
中部地方の交通史を考えるうえで注目される河川のうち、ここでは美濃と飛騨、つまり現在の岐阜県を流れる木曽川、長良川、揖斐川という、いわゆる濃尾三川の舟運についてみてみよう。
[木曽川]
木曽川の幹流がほぼ現在の形に固定されたのは、1586年(天正14)の大洪水以後のことである。それ以前の本流は、犬山の対岸・鵜沼から西流して長良川に合流し、墨俣(すのまた)・桑名を経て伊勢湾に流れ込んでいた。従って、それ以前は境川と呼ばれ、木曽川と称したのは天正以後のことである。木材資源の流通路として開けたのは古く、13世紀にはすでに記録に現れている。
近世初期は城と城下町の建築ラッシュで、岐阜城をはじめ江戸・名古屋城などの建設に用いる大量の木材が必要となった。豊臣・徳川両家は全国の土地を把握するとともに、有力な山林を直轄支配したが、とりわけ木曽は重要な位置を占めていた。豊富な木材を江戸や畿内に運搬するのに、木曽川を使用すると容易であったからだ。
豊臣秀吉の時代、木曽の木材は美濃の墨俣などから陸揚げされ、琵琶湖畔の朝妻まで陸送、そこからは船積みにして京都まで運搬された。もともと木曽川は軍事上の目的から、兵器類と負傷兵の通行、夜間の通船、徒行渡り(かちわたり)などは許可されていなかったが、徳川家が実権を掌握した元和以後、さらに厳しく取り締まった。このような情勢によって木曽川の舟運は発達しなかったため、岐阜・加納・笠松および飛騨方面とを上下する荷は、飛騨街道を利用した。また、名古屋と東濃・木曽との間の荷物は、小牧街道から中山道を利用するほかなく、これにより陸上輸送と継荷問屋の発達がうながされた。
[長良川]
下流の墨俣で木曽川に合流していた長良川の上流(郡上川)には、美濃紙の産地とその集荷市場である上有知(こうずち)・大矢田を控えていた。美濃紙は上有知湊で船に積まれ、墨俣・近江を経由して畿内に出荷された。紙のほかには茶、あずき、柿、たばこ、干し大根、木綿、荏胡麻(えごま)などが、岐阜やさらにその下流地域へ船で運ばれた。また、檜、けやき、杉、松、栗などの丸太や角材、板などが船や筏で川下げされた。
現在の美濃市港町にある上有知湊は、郡上八幡と桑名(三重県)と結ぶ重要な通り筋であったが、特に岐阜との間の便が盛んであった。また、近世になっても伊勢参りの旅人が利用した。この川湊は金森長近の時代に開け、番船40艘を造らせて地方物資の輸送と集散に当たらせた。
長良川の舟運を管理する役所が、いつ頃から設けられていたのかたしかなことは不明であるが、1592年(天正20)岐阜城主織田信秀が、中流にある鏡島湊が遡上荷船の最終湊であることを保証する文書があるので、のちの「長良川役所」に相当するものがすでに存在したことは間違いない。桑名・揖斐川を経由して加納城下、岐阜方面へ登る荷物は、すべて鏡島湊で荷揚げして陸送されていたのである。なお、関ヶ原戦後は徳川家康の支配下となり、元和以後は尾張藩の支配下に入った。
[揖斐川(いびがわ)]
揖斐川(久瀬川)は、木曽三川のなかで西に位置し、他の二川と同様に交通・運輸に大きな役割を果たした。往来の拠点となったのが、北方(きたがた)や房嶋(ぼうじま)などの現在の揖斐川町である。輸送物資のなかでもっとも多いのは「つだ」と呼ばれる燃料用の薪材で、上流の徳山や坂内(さかうち)方面から伐りだされたが、徳川政権以後も大垣藩の重要な財源であった。
1580年(天正8)織田信忠は掟書を下し、揖斐川の渡船場である呂久(ろく)の諸役を免除しているが、この文面からすでに桑名との舟運が開けていたことがうかがわれる。1594年(文禄3)、秀吉の代官・古田織部は、荷船と材木・薪炭に「久瀬川六分一役」という税を課しているが、この頃すでに相当数の荷物が往来していたようだ。なお、揖斐川の湊では五十石から百石級の大型船が就航していたことが注目される。しかし関ヶ原戦後、中山道の一大拠点であった大垣に水運が開け、70軒の船町を形成するにいたって、それまで揖斐川の三湊を経由していた船荷までが大垣に集中するようになり、徐々に衰退へと向かっていった。
関連図版:
長良川風景|
川湊・上有知(こうずち)|
上有知の灯台
解説:
河川交通
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