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徳川初期の海上交通

戦国時代から桃山時代にかけては、東南アジアを中心に海外との航路も開けていたが、江戸幕府の鎖国政策の結果、海外進出は途絶えることとなった。その一方、石高制の成立、参勤交代制の強化といった中央集権的政策の実施に伴い、大坂・江戸への海上交通が盛んとなった。さらに各地の城下町・港町と江戸・京都・大坂の三都を結ぶ商品流通のネットワークが形成され、商品の海上輸送が頻繁となった。
1616年(元和2)には、江戸に出入りする回船を査察する機関として伊豆の下田に海関を設けて下田奉行が置かれた。こうして幕府は東海、関西および四国方面からの舟の出入りをチェックして海上交通を掌握したが、やがて東海地方、瀬戸内地方にも及んだ。瀬戸内では、かつて海外貿易の拠点であった堺が、1604年(慶長9)の大地震で壊滅的打撃を受けたこともあり、大坂が海運の中心となった。こうして大消費地江戸へは、天下の台所と言われた大坂が最大の供給基地となり、菱垣(ひがき)回船や樽回船が輸送を行なった。菱垣回船の起源は1619年(元和5)、堺の商人が紀州富田浦から250石積の回船を雇い、大坂で木綿、油、綿、酒などを積み入れて江戸まで海上輸送したことに始まる。以後、大坂―江戸間の大動脈として定期化された。
なお、日本海の北国海運は古くから発達して、近世初頭も畿内への中継基地である敦賀、小浜には船持豪商が輩出し、遠隔地間の商品輸送と販売をとうして海運を支配していた。


関連図版: 菱垣回船 樽回船

解説: 海上交通

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