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戦国時代の軍船

日本では源氏と平家が争った時代はもとより、鎌倉時代を通じても専用の軍船というものは存在しなかったが、室町時代ころに「関船」と呼ばれる快速船が現れ、戦国時代になって史上最強の「安宅船(あたけぶね)」が完成した。戦国時代の水軍は、この安宅船を中心に関船や小早(こばや)を配した編成が一般的で、毛利、織田、北条、武田の水軍もほぼ同様であった。
安宅船というのは、小さいものでも五百石積級で、通常千石以上二千石積級の船をいう。櫓は船の大きさにより、50から160挺立で、ふたり漕ぎの大櫓であればその六割程度であった。船首は箱形で亀甲型の装甲を施し、なかに大筒を置いて正面から砲撃できるようにした。船首から船尾にかけては総矢倉とし、楯板で装甲した。
織田信長は、1573年(元亀4)琵琶湖畔で大安宅船を建造したが、『信長公記』によれば長さ三十間、幅七間、櫓百挺立であった。また、本願寺攻めのさい毛利水軍に惨敗したのにこりて、78年に九鬼嘉隆に命じて造らせた六艘の安宅船は史上名高い鉄甲船であった。この船を目撃した宣教師オルガンチノが驚嘆しているように、当時としてはまれに見る重装備の巨艦であった。さすがの毛利水軍も、大砲3門を備えたこの新鋭鑑にはまるで歯が立たずに完敗した。しかし、信長の後継者である秀吉や家康は水軍への理解がなく、安宅船のあと進歩がなかった。そのため文禄・慶長の役にさいして、水軍はふるわなかった。
安宅船よりずっと小型の関船は、ふつう小櫓40挺立以上の船で、鋭い船首と細長い船形をもち、スピードがあった。また、これよりさらに小型で、14挺から30挺の櫓を持つ快速船が小早である。関船よりも軽量であるため簡易装備となり、斥候用、連絡用に使用することが多かった。
なお、近世前期の技術改良で見逃すことができないのが帆装の進歩であろう。性能を重視する軍船は伝統的なムシロ帆を廃し、木綿帆を採用した。たとえば、1609年(慶長14)の蜂須賀家から九鬼家に渡された大安宅船の木綿帆は、21反という記録が残っている。おそらく秀吉による朝鮮侵略のさいに使用された安宅船や関船は、木綿帆が主流であったろう。しかし、荷船や橋船(船を多数使用して、臨時の橋としたもの)では依然としてムシロ帆が使用されていた。


関連図版: 呼子湾に停泊する大安宅船 関船

解説: 海上交通

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