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徳川初期の陸上交通

徳川初期の交通政策の課題は、京都・大坂を重視した織田信長、豊臣秀吉の交通体系から、江戸を中心とした交通体系に改めることであった。事実上の政権を掌握した関ヶ原以後、1601年(慶長6)には東海道伝馬制を実施し、各宿ごとに伝馬36匹を定置させ、翌年以降は中山道においても実施した。この両街道の宿駅に対しては荷量の制限、駄賃や河川の船賃の徴集を行ない、また新規の宿駅を設けた。
家康以後、江戸は江戸城の増改築と併行して拡張整備が行なわれ、また参勤交代による諸大名の邸宅が増えるなど、文字通り政治の中心地となった。これにより、江戸―駿府―京都・大坂を結ぶ東海道はますます重要となり、江戸を起点とする五街道も次第に整備された。なお、五街道とは東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道をいう。幕府ではこれらを管理するために1659年(万治2)に道中奉行を置いた。街道の改修、整備、架橋、渡船、並木、宿駅、助郷、人馬賃銭に関することなどは、すべて道中奉行が管轄した。なお、東海道は江戸と京都を結ぶ公武関係を象徴し、また参勤交代の大名がもっとも多く通行する関係でとくに重視され、その裏街道である中山道がそれに次いだ。
東海道のような主要な街道では、水たまりやぬかるみは砂石で敷き固め、当時のヨーロッパ人もその整備状況を賞賛している。また、箱根路などの難所や山道では石畳や板石を敷いた場所もあり、今日も一部が残っている。


解説: 陸上交通

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