

信長と秀吉の交通政策
織田信長と豊臣秀吉によって天下が統一され、戦乱が終息するとさまざまな面で急速な変化が起きた。経済活動の要である交通政策も、各大名の領国内で独自に行なわれていた分断的な交通政策が徐々に改正され、全国的な交通網の整備が始まった。楽市・楽座の奨励、関所の撤廃、道路・橋梁の整備、山賊や海賊の鎮圧、伝馬制度と駅制の整備、回船業者への助成といった政策がつぎつぎと実施され、全国規模への展開へと向かっていくのである。こうした交通網整備によって、情報、ヒト、カネ、モノが活発に流通し、経済発展のインフラが次第に整備されていった。
信長は全国的な交通網を整備するため、まず関所の撤廃を実施した。関所では通行する人馬に関銭と称する税をかけ、街道はいわば有料道路化していた。はなはだしきは伊勢街道の桑名−日永間のように、わずか四里のあいだに60余を数える関所が設けられていたという例もあった。信長は、1568年(永禄11)から翌年にかけて領国内で関所の撤廃を行なったあと、平定した国においてもつぎつぎと実施した。このうち甲斐、伊勢、近江諸国は交通の要衝であったため関所が乱立していたが、撤廃によって商品流通が円滑化し、物価も値下がりしたうえに参詣人・旅行者にも好評であった。
信長は関所の撤廃だけでなく、戦乱のために荒廃していた道路や橋を整備した。従来の道は、中世の荘園や領国大名が独自につくったもので一貫性がなかったが、尾張、美濃、近江、山城、大和、甲斐、信濃などの道路の幅を三間(さんげん。一間=六尺=約1.818m)から三間二尺に拡張し、道路の両脇には並木を植えるなど、道路の改修整備を行ない、尾張、瀬田、宇治に架橋した。信長は一国を平定するとすぐ、道路や橋の整備を行なう傾向にあったが、武田氏を滅ぼしての帰路では、甲斐・信濃の道路を改修し、天竜川に橋を架けるなど、積極的に交通政策を推進した。
信長を継承した秀吉は交通政策も引き継ぎ、関所の撤廃を行なった。街道では里程を統一し、36町1里制を採用して一里塚を築かせた。1586年(天正14)の島津討伐にさいしては、毛利氏に山陽道から九州にかけての道路と「御座所」の建設を命じたが、これは全国的な新交通体系の端緒をなすものであった。また同年、関東の北条氏滅亡後には小田原から会津までの道を、沿線の百姓を徴発して普請させている。
秀吉は、文禄・慶長の役に際して、街道沿いの諸大名に命じて京都・大坂と肥前名護屋のあいだに伝馬や飛脚の整備を急いだ。毛利氏はこのとき、秀吉の宿泊用御座所として「御茶屋」を設けたが、これは後に徳川幕府における本陣に相当するものである。また、淀、大坂から瀬戸内一帯の港、さらに九州の小倉、芦屋、博多にかけての港を継舟港とし、海上交通のルートを定めた。なおこのとき採用された駅伝制は、後に江戸幕府の伝馬制度の基礎となった。
解説:
陸上交通
関連コラム:
徳川初期の陸上交通
ウィンドウを閉じる