

1547-1618。肥前国能古見城主・原豊後守直家の次男として生まれ、原治兵衛直治といった。1582(天正12)年、原家は有馬氏に滅ぼされ、直治は毛利輝元の家臣となった。毛利氏の所領・周防山口は、大内氏の城下町であったころから対明貿易でさかえた国際文化都市で、雪舟はこの地で雲谷庵をいとなんでいた。直治の画才を見出した輝元は、秘蔵の雪舟筆山水長巻の模写を命じ、そのできばえをよろこんで、直治に雲谷庵をつがせた。この後、直治は雪舟等揚の名から一字をとり、雲谷等顔と名のるようになったと思われる。
当初、狩野松栄に学んだともいわれるが、直接師事したかは不明である。雪舟様式を踏襲し、水墨の山水人物を得意としたが、その古様と格調のなかにも、桃山様式もとり入れ、独自の世界をつくり出した。そして、その筆致や構成が大胆なことから武家に好まれた。また、茶の湯、連歌のたしなみもあり、人格的にもすぐれていたと評されている。
代表的な障壁画としては、輝元の伯父・小早川隆景が造院した大徳寺黄梅院の諸作品がある。
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