

「きんぺき」とも「こんぺき」とも読む。着彩画のなかでも、とくに金地濃彩のものを「濃絵(だみえ)」といった。「だむ」とは「たむ」がなまったもので「彩る」ことを意味する。このように、金箔押しの画面に濃彩をほどこすことを「箔にたむ」と表現したが、なかでも代表的な濃彩である丹(朱)や碧(青)などをとり合わせて描いたものを、金碧画とよぶようになり、桃山障壁画の代表的様式となった。
金碧による障壁画がいつ発生したか定かではないが、そもそもこの技法はやまと絵障壁画の手法であり、これを部屋の調度に用いたのは平安以来の慣例であった。足利時代には漢画にとって代わられるが、土佐派ではこの技術を温存し、町絵師のあいだでは注文に応じて金碧画が描かれていた。これを、漢画の平明化を狙った狩野派がとり入れ、その後、劇的な効果を狙った狩野永徳が大画面の障壁画に導入した。
金碧障壁画は桃山時代に隆盛となり、まさに動乱の時代を彩った。書院形式の座敷、城郭建築の発展とともに盛んとなり、ことに玄関にあたる遠侍や式台の間など、表向きの諸御殿には金碧障壁画が描かれることが多かった。
解説:障壁画|狩野派|狩野元信|狩野永徳|狩野光信|狩野山楽|雲谷等顔|長谷川等伯|海北友松
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