

1543-1590。幼くして画才をあらわし将来を期待され、祖父元信により英才教育をほどこされる。24歳のときに手がけた三好家の菩提寺・大徳寺聚光院の障壁画では、もっとも重要な「仏間」を担当した。元信が創始した装飾様式をさらに近接描写によって拡大させ、絢爛さにくわえて漢画特有の激しさを加味した独自の様式を完成させた。この新様式は織田信長に認められ、安土城天主の障壁画を任され、5年の歳月をかけて完成させたが、明智光秀の反乱時、焼失した。信長没後は秀吉につかえ、大坂城内障壁画や御所造営に伴う絵画制作に携わり、ついで聚楽第の障壁画を完成させるなど、華やかな業績を残した。
数多く制作された障壁画のほとんどが失われ、永徳の作品として確証あるものは少ないが、聚光院の「四季花鳥図」と上杉家の「洛中洛外図屏風」はとくに有名。なお、上記大建築の障壁画は、狩野派工房による集団制作で次々に量産され、狩野派の位置を決定づけた。また永徳以後、障壁画は完全に建築空間の装飾となっていった。
図版:
唐獅子図(宮内庁)
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