桃山時代の空間装飾



建築空間を彩った装飾主義的絵画の撩乱
桃山時代に開花した金碧障壁画は、それに先立つ100年ほど前にすでにやまと絵風の屏風絵に用いられていました。応仁・文明の乱によって荒廃した京の町の復興は、戦乱で弱体化した幕府に代わり、京や堺の町衆、三好・松永氏らといった地元の武将たちによって行なわれましたが、そのため社寺や邸宅といった建築の内部空間は、彼らの好尚を反映していくことになりました。時代の波にのる新興勢力で、しかも財力にあふれた彼らが好んだのは、黄金趣味にあふれた豪華な装飾でした。こうした黄金趣味を絵画として表現したのが、金箔地に派手な色彩をほどこした金碧絵画だったのです。漢画の隆盛な室町時代にあっても、土佐派や町絵師の間ではこの様式が保持されていました。その後、狩野永徳が大画面の障壁画にとり入れてから、時代の覇者織田信長や豊臣秀吉によって当時の大建築とくみ合わされ、金碧絵画はさらに大きく開花します。
室町時代の主流であった漢画は、鎌倉時代に伝えられた禅宗とともに流入しました。最大の特徴は、水墨を主たる手法としていることで、それまでのやまと絵障壁画に代わり、禅宗寺院だけでなく浄土教系の寺院、あるいは神社などにまで漢画による障壁画が広まっていきました。漢画の主題は山水ですが、たんなる風景画としてではなく、仏の世界を表すものとして宗派を越えて支持されたわけです。
とはいえ、初期の禅院では、絵画は修行の一環であり、装飾に使われることはほとんどありませんでした。漢画水墨画が障壁画として採用されたのは、室町時代にはいり、禅宗と世俗との交わりが深くなるにつれ、武家館や公家邸などに障壁画として影響を与え、その流れが再び禅院に戻ってきたのだろうと考えられています。
足利将軍義政の時代になると、漢画障壁画はますますさかんとなり、漢画派の巨匠宗湛やその子宗継が活躍しました。また、曾我蛇足の作品と伝えられる、大徳寺真珠庵客殿の花鳥・山水の水墨画は、漢画障壁画の代表作として名高いものです。しかし、禅宗的な雰囲気の濃い時代に成長し、渋くて精神的に深みのある表現を特徴とした水墨中心の漢画も、時代の風潮や好みに応じて次第に変化を余儀なくされ、やがて狩野元信の登場によって派手で新しい装飾的様式に移行していったのです。
画壇の主流となった狩野元信は、漢画による新装飾障壁画ともいうべき様式をつくりあげます。つまり、寺社と住宅の区別をせずに障壁画を普及させ、水墨山水画のもっていた宗教性を払拭してゆきました。そして、その装飾性、世俗観賞性を極限まで高めたのが、元信の孫の永徳でした。幼くして画才をあらわした永徳は、24歳のときに描いた大徳寺聚光院の障壁画群で、豪快な形象、雄勁な筆法、強烈な彩色をもって自らの様式を創始しました。この永徳の才能に目をつけたのが、時代の覇者になりつつあった織田信長でした。信長は安土城の七重の天守をふくむすべての建物の障壁画を、永徳に命じました。5年をかけて完成された障壁画群は、完成後、わずか3年で明智光秀の反乱の余波で焼失してしまいますが、威容と華麗さは、当時の記録によって鮮やかに語りつがれています。
その後、永徳は秀吉の大坂城、聚楽第の諸御殿などの障壁画を、狩野一門の大プロジェクトとして精力的に手がけ、桃山時代絵画の頂点をきわめました。
時の権力者たちの建築を彩った狩野派に対し、在野画人として活躍したのが長谷川等伯です。等伯は若いころに狩野の門をたたいたといわれていますが、後には狩野派に対抗してライバル意識を燃やし、美術史にのこる仕事をしました。また、強烈な個性をもち、数多くの作品をのこした海北友松や、水墨・淡彩画を主とし、華やかな画壇に異彩を放った雲谷等顔など、まさに百花繚乱の画人たちが、宗教的絵画から現世への観賞性、さらには装飾主義をきわめた桃山時代の建築絵画を彩っていたのでした。


解説:障壁画金碧画狩野派狩野元信狩野永徳狩野光信狩野山楽雲谷等顔長谷川等伯海北友松


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