長谷川等伯



1539-1610。狩野派全盛の画壇に対抗する流派を成した等伯は、能登七尾の生まれで、のち染織家長谷川宗清の養子となった。養父は雪舟流の画家等春の影響を受けていたため、等伯もはじめは等春風の水墨画を描いていたと推定される。
長谷川家は法華宗徒であったため仏画、肖像画を多く手がけたが、能登地方には当時、信春と号した等伯の作品「日蓮上人像」「十二天像」「達磨図」などが現存している。30歳はじめに上洛するが、途中、曾我派を学んだとも伝えられるが明らかではない。また、狩野松栄の門をたたいたといわれているが、入門にはいたらなかった。やがて大徳寺に出入りし、利休や堺の茶人たちと交流した。1583年頃、大徳寺総見院・三玄院などの障壁画を手がけ、この頃より等伯を名のった。大徳寺に残る宋元画や真珠庵の曾我派の絵から学び、独特の余白と真行草の使いわけに成功して水墨画を近世的意匠に高めた。50から60歳代にかけて「松林図屏風」「猿猴(えんこう)竹林図屏風」「枯木猿猴図」などの水墨画の傑作を描いた。
一方、濃彩の花鳥・人物画への研鑽も怠らず、秀吉の長子鶴松の菩提寺・祥雲禅寺の障壁画制作には一門を率いてあたり、「楓図朕」「松に黄蜀葵図」(ともに現在は智積院)など、桃山美術の記念碑的大作を完成させた。なお、一時期、5代目雪舟を自称したことある。


図版:波濤図
 
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解説:障壁画金碧画狩野派狩野元信狩野永徳狩野光信狩野山楽雲谷等顔海北友松



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