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桃山以後の障壁画

織豊政権が崩壊した時期は、狩野派にとっても大きな転換期であった。永徳亡き後、弟の宗秀、長男の光信、次男の孝信、さらに門弟から養子となった山楽らは永徳流の大画面様式を新しい方向へと進めた。光信はやまと絵の優雅さを加え、山楽は装飾性をさらに強めるなど、新生面を開拓したのである。
徳川家が実権をにぎると、幕府の用命を受けたのは狩野宗家(=本家)をついだ光信であった。しかし、短期間の活動のあと間もなく没したため、12歳の息子貞信を中心に年長の長信や孝信らが結集して宗家をもりたてていった。1614年(慶長19)に完成した名古屋城本丸御殿の障壁画制作では、貞信以下、孝信、長信、甚之丞(宗秀の子)らが参加して当たった。この装飾画は桃山から江戸へと移行する時期の貴重な記録として20世紀まで伝えられたにもかかわらず、空襲によって焼失し、わずかに襖絵や杉戸絵などが残るのみである。また山楽は、秀吉没後も豊臣家につかえ、狩野家のほとんどが江戸に移ったあとも京都に残った。山楽以降、山雪、永納らがあとをつぎ、さらに幕末まで続いた。装飾的な画風を受けつぎ、京狩野と呼ばれている。
一方、早い時期から徳川家と関係をもったのは孝信の長男の探幽であった。彼は11歳で父に伴われて徳川家康に拝謁し、16歳で徳川幕府の御用絵師となった。父孝信が没すると12歳の弟尚信にあとをつがせ、さらに23年に宗家の貞信があとつぎのないままに没すると、末弟の安信を貞信の養子にして宗家をつがせた。こうして狩野家の中枢は、探幽三兄弟が占めることになった。
1626年(寛永3)の二条城や34年の名古屋城上洛殿の障壁画は、探幽が尚信、安信など一門を率いて制作にあたったものであるが、探幽の様式に統一されるなど、一門の中心となり宗家をしのぐほどの実力であった。探幽は幕府から鍛冶橋門外に屋敷を拝領した関係から、鍛冶橋狩野家と呼ばれた。
また弟尚信は竹川町に屋敷を拝領し、その子常信のときに木挽町(こびきちょう)に移ったので木挽町狩野家と呼ばれ、さらに宗家の安信は寛永年間に中橋狩野家をひらいた。ここに狩野家の中心は完全に江戸に移り、山楽系の京狩野に対して江戸狩野と呼ばれることになった。
狩野派とはライバル関係にあった長谷川派は、将来を嘱望された等伯の長男久蔵の夭折によって、その後、後退を余儀なくされたが、久蔵の弟には、宗宅、左近、宗也の3人がいた。そのうち宗宅以外は江戸の画家として扱われるが、残された障壁画で特定されたものはない。しかし、松島の瑞厳寺本堂障壁画の一部は、等伯の弟子にあたる長谷川等胤が狩野系の佐久間左京と共同制作を行なったとされる。
雲谷派は狩野派同様、江戸末期まで続き、2代目(=雪舟4代)にあたる雲谷等益が残した聚光院客殿の「水墨山水人物図」や「草山水図」など、名高い作品がある。なお、等益は頻繁に上洛して大徳寺や清泉寺などに障屏画を描いたとされる。
海北派は子の友雪があとをつぎ、寛永年間に入ってから銀閣寺、東寺宝印院、妙心寺雑華院、禁裏などの障屏画を描いたとされるが、現存している作品は妙心寺客殿の「山水図」と「雲龍図」のみである。なお、友雪は狩野派の大規模な制作時に何度か応援を依頼されたらしく、御所の造営にもその名が残されている。


解説:障壁画金碧画狩野派狩野元信狩野永徳狩野光信狩野山楽雲谷等顔長谷川等伯海北友松


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