

狩野派の共同制作
狩野正信が頭角を現し、足利幕府や武将のあいだで高い評価を得るにつれ、自身が編み出した画法を長く後世に伝えようとしたであろうことは想像に難くない。オリジナルの作品の多くが失われた現在、記録から推測するしか手だてはないが、相当数の障壁画が武家屋敷に描かれていたことはあきらかであるから、これらは正信自身が単独で制作したものではなく、多くの門人たちが彼のもとに集まり、手分けして共同で制作に当たったものと考えられる。大邸宅の装飾に用いられる大画面の絵画であることや、数量と制作時間、また同時期の複数の注文要請などさまざまな要件を考慮すれば、主要な部屋は正信が受けもつとしても、他は門弟が指導を受けながら分担して描き上げたとみるのが妥当である。当時、専任の画家とそれを補佐する複数の画家が一団となり、共同作業という近代的生産システムをとっていたことがうかがえるのである。
このような正信の業績から考えられることは、たんに個人的な画家というよりも、クライアントから事業を請けおい、着実に注文をこなす事業主の顔が浮かびあがってくる。大作が大量に発注されると、参加の門弟たちを招集し、仕事の割りふりを決めて周到に仕事をこなすという、近代的な分業システムがすでに構築されていたのであろう。こうした点から見ると、狩野派という「組織」は正信によって固められたことが理解される。また、正信は97歳という高齢で没したが、息子・元信が十分に彼の意志をつぎ、孫・松栄らが成長した姿を見とどけられたということも、狩野派の基礎を確立するうえで大きな意味があった。
大徳寺大仙院方丈の障壁画を制作するに際して元信は、父親同様、傘下の一門を招集して狩野派の力を結集したが、これにより画風の統一を図る点においても、全体を統御するうえでもおおいに効果があった。元信によって創出された、装飾性に富んだ作風が開花する背景には、こうした近代的合理主義の精神があったのである。しかし、各種の注文に応じるためには高水準の画家を集めなくてはならず、またいつでも制作に当たれるよう、つねに多くの門弟を養っておく必要もあるから、集団の維持もかなりのことであったと想像される。
近世初頭までの狩野派の基盤は、正信、元信によってその土台が固まったが、桃山障壁画の頂点をきわめたのは、永徳である。戦乱が終わって天下が織田信長に統一されると、反動として生きる悦びを謳歌する華やかで色彩にあふれたものが好まれ、新しく建設された邸宅にも時流にそくした絵画が装飾として用いられた。その象徴ともいうべきものが、永徳によって完成された金碧障壁画であり、彼は時代の寵児として人気を博するようになった。そして、桃山時代の記念碑的作品、安土城天主を飾る障壁画の制作へと向かうのである。永徳の作家活動をふり返ると、そのほとんどは大作の襖絵や障壁画の類が主流で、小品は少ない。大画面に制作の主力を置いたともいえようし、こうした注文が多かったことのあかしでもあろう。
安土城天主閣の壁画制作は、完成まで時間もないこともあり、永徳は弟・宗秀(のちに元秀)に家督を譲ってから安土に向かった。万が一失敗に終わったときには、その罪科(つみとが)は永徳の直系にのみとどまるよう、周到に配慮したものという。34歳の血気さかんな永徳であったが、いかんせんその数量はぼう大な数にのぼり、描かれた種類もきわめて広範囲に及んでいた。これまでの技術と経験のすべてを投げだしたといっても過言ではなかろうが、こうした未曾有の大作を、永徳は長子・光信を含めた一門の総力を結集して当たり、みごと4年で完成させて天下にその実力を示したのであった。
解説:障壁画|金碧画|狩野派|狩野元信|狩野永徳|狩野光信|狩野山楽|雲谷等顔|長谷川等伯|海北友松
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