

侘び茶の完成から、きれいさびまで
中国からもたらされた茶は、当初、宗教的な儀礼や薬用として用いられていましたが、14世紀になると嗜好品として発展し、さらに闘茶という遊技を生み出しました。これは何回か茶を飲みくらべ、茶の種類を当てるという賭け事でもありました。室町時代に入ると、書院造建築の完成によって茶は武家儀礼の一部に取り入れられ定着していきますが、まだ独立した茶室はなく、書院の一部を屏風などで囲って行なわれていました。
15世紀後半、村田珠光が出現するとそれまでの茶風が一新され、新しい茶法が誕生しました。珠光は大徳寺の一休宗純に参禅し、禅の思想と連歌の美意識である「冷え枯れる」美
しさを茶道に実現しようと試みたのです。茶の湯に使う道具類も、豪華な唐物ではなく、素朴な日本の雑器を選び、不完全なものに宿る美を追求して「侘び茶」を打ち立てました。また、茶の湯を行なう四畳半の空間を考えだして、以後、これが定着していくことになるのです。
16世紀に入ると、侘び茶は堺の町衆に愛好されました。当時の堺は自治都市として名高く、明との貿易で得た経済力を背景に隆盛を極めていましたが、町衆のひとり武野紹鴎は、村田珠光の精神を受け継ぎ、茶の湯をさらに強固なものにしました。珠光の四畳半茶室を完全に独立させた草庵茶室は、都市の喧噪を離れた別世界「市中の山居」を創出し、そこで行なわれる茶の湯は広く支持されたのです。
珠光・紹鴎によって発展した茶の湯を、より精神的に深め、完成させたのが千利休です。利休は既成の美意識にとらわれず、待庵に代表される狭い茶室を考案し、高麗物と呼ばれる陶磁器を取り入れ、みずから竹花入や茶杓をつくるなど、さまざまな改革を行ないました。また一方で、信長・秀吉の茶頭として重用され、権力者の儀礼的な茶の湯も担当することになり、茶の点前・作法、茶会の形式なども侘び茶の思想によって整えていきました。
しかし、「山を谷、西を東といいなす」と形容されるほどに激しい利休の考え方は、戦乱が収まり次第に中央集権的身分制度が強化されるにつれ、権力者である秀吉からも都合のよいものではなくなるのです。利休が自刃に追い込まれたのも、こうした時代の変遷が大きく影響していたとみて間違いないでしょう。
千利休によってピークを迎えた侘び茶は、その死によって変化を余儀なくされます。そして17世紀の茶の湯は、古田織部によって引き継がれるのですが、織部焼に象徴されるような不均衡の美、華麗な色彩など個性が強く、利休の高弟でありながら反対する者も多かったようです。しかし変革を求め、新しいことに挑戦するその姿勢こそ、まさに師利休の精神を受け継いだものと言えるのです。織部の没後、その弟子である小堀遠州は利休風の侘び茶を継承する一方、東山時代の書院茶の湯を復興し、武家の時代の茶の湯を打ち立てました。また、王朝趣味を取り入れて総合的な茶の湯の展開を図り、「きれいさび」と呼ばれました。
一方、家康らのとりなしで再興を許された千家は、宗旦およびその三人の息子の時代になると三千家として分離し、わび茶の伝統を守りながら江戸の新興都市民の間に茶の湯を広げていくのですが、やがて家元としての制度を確立し、現在の茶道の礎を築いたのです。
解説:
千利休|
古田織部|
小堀遠州|
きれいさび|
孤蓬庵|
破格の茶|
燕庵|
草庵茶室|
待庵|
武野紹鴎|
四畳半茶室|
村田珠光|
佗び数奇|
大徳寺|
不審庵|
千宗旦|
茶禅一味|
北野大茶会|
豊臣秀吉|
黄金の茶室|
茶の湯前史|
東山御物|
唐物|
高麗茶碗|
楽焼|
織部焼|
中興名物|
織田信長|
名物狩り
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