

信長が茶の湯と巡り会ったのは少年時代で、守り役・平手政秀による手ほどきが最初といわれる。しかし、信長と茶の湯との本格的な出会いは、永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛した時に始まる。この時信長は、今井宗久の名物「松島」の茶壺、「紹鴎の茄子」茶入、松永弾正の「九十九髪(つくもがみ)」の茶入を献上されたのであるが、これを契機として、茶の湯への興味をかきたてられたといえよう。
信長は堺の町衆、今井宗久、津田宗及、千宗易(利休)を茶頭として召し抱え、その教養や茶の湯の見識とともに彼らのもつ財力を利用した。またしばしば茶会を催しては、懐柔したい人物や知己としたい人物を招き、蒐集した名物を陳列して権勢を示した。茶会はもはや数寄者の楽しみではなく、政治経済をつかさどる儀式となったのである。
一方、信長は部下の武将に対し、茶の湯の接待を主催できるか否かの序列を決め、これにはずれる者には茶の湯を禁じたが、このことで逆に茶の湯への関心は高まり、その影響は町衆にもおよんだ。このように、天正年間に数寄茶が完成する背景には、信長の存在が大きかったといえる。
本能寺の変の前日、信長は安土城から持参した茶道具を用いて茶会を催した。38におよぶ自慢の名物が、すべて本能寺に運び込まれたという。40人あまりの公家を招いて名物を披露し、天下人としての権力を誇示した信長であったが、これが生涯最後の茶会となった。
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