

千宗旦は、1591年(天正19)、利休が自刃したときには14歳であった。大徳寺の春屋宗園(しゅんのくしゅうえん)のもとにあずけられ、禅の修行に励んでいたが、ほどなく千家の再興が許され、父・少庵が利休の茶室不審庵を継いだときに大徳寺から召し返され、本法寺の屋敷へ移りやがて千家三世を継ぐことになった。宗旦を教育したのは利休の後妻宗恩であった。彼女はきわめて教養高く、茶道全般の手ほどきを行なった。やがて宗旦は徳川家をはじめ、諸大名から茶頭として招かれたがこれをいっさい断った。祖父利休が、秀吉の禄を喰んでいたために自刃に追い込まれたことを強く感じていたためといわれるが、茶の本来というものは市井の暮らしのなかにこそあり、大名のぜいたくな生活から侘びの精神は生まれない、と信じたからであろう。したがって宗旦の生活は相当に苦しく、「乞食宗旦」と呼ばれていた。また、貧しいが故にますます侘びに徹し、茶禅一味の心境へ到達したといえる。宗旦の弟子には丹後宮津城主・京極高広(安智斎)、朱子学の権威三宅亡羊、呉服商藤村庸軒、久須美疎安、石庭で名高い竜安寺住職僖首座、能楽の喜多七太夫、山田宗偏などさまざまな職業階級の人物がいた。
茶室に関しては、不審庵、残月の間など利休好みのほか、四畳半の又隠(ゆういん)、八畳の寒雲亭などを新たに建てたが、老齢に達してからはさらに狭い一畳台目の茶室を建てた。台目というのは、一畳の畳の四分の一を切り取って短くしたもので、切り取った寸法が台子の幅と同じであることからこのように名づけられた。宗旦は四畳半の広さからむだな畳を除き、点前に必要な台目畳と、客がすわるために必要な一畳だけにそぎ落とした究極の茶室を考案したのである。
関連図版:
雁取 長次郎黒楽茶碗|
さび介 長次郎黒楽茶碗|
又隠復元図1|
又隠復元図2
関連コラム:
三千家の誕生
解説:
千利休|
古田織部|
小堀遠州|
きれいさび|
孤蓬庵|
破格の茶|
燕庵|
草庵茶室|
待庵|
武野紹鴎|
四畳半茶室|
村田珠光|
佗び数奇|
大徳寺|
不審庵|
茶禅一味|
北野大茶会|
豊臣秀吉|
黄金の茶室|
茶の湯前史|
東山御物|
唐物|
高麗茶碗|
楽焼|
織部焼|
中興名物|
織田信長|
名物狩り
ウィンドウを閉じる