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薬用に用いられた茶

茶がいつごろ日本に渡来したのか、じつははっきりしていない。仏教の伝来とともに、供茶(くちゃ)や施茶(せちゃ)といった行事として次第に普及したと思われるが、正史に見えるのは梵釈寺の僧・永忠が、嵯峨天皇に献茶したという記録が最初である(コラム「栄西と茶の伝来」参照)。しかし、これは「団茶」による飲用法であった。
抹茶をもたらした栄西は、京都の建仁寺に住したが、後に北条政子に招かれて鎌倉に赴いた。『吾妻鏡』によると、三代将軍実朝が病気になったとき良薬として抹茶をすすめ、病気が快方に向かったとある。栄西はまた『喫茶養生記』という書物を著しているが、このなかで乱れた世を救済するための手段として加持祈祷のかたわら、抹茶という新薬を飲んで心身ともに健全に立ち返ることを説いている。茶を、飲んで楽しむものというより、あくまでも薬用として、また健康飲料として用いたのである。
栄西による抹茶法伝来が契機となって、しだいに喫茶への関心が強くなっていったが、この時点でその歴史は大きくふたつの方向へと分かれていった。ひとつは先に述べた茶の薬用効果=茶徳の面と、もうひとつは儀礼化の方向である。後者がやがて茶の湯として形を整えていくわけであるが、ここでは前者について見てみよう。
鎌倉時代、ひとびとに茶の徳、すなわち薬効を施すことが広く行なわれた。たとえば、奈良の西大寺では、民衆の求めに応じて施茶を催したことが記録にある。困窮した民衆や重病者に仙薬として抹茶を与えたものであろう。また鎌倉末期の蒙古襲来に際しては、戦勝祈願として献茶の儀式を行ない、その余抹をひとびとにも与えた。このときに集まったひとびとがあまりにも多かったため、ひじょうに大きな茶器をもちいたのが、「大茶盛」の起源である。現在でも4月15、16日に施茶を催し、しばしばテレビなどでもユーモラスな様子が紹介されているので、知る人も多い。
このほかにも鎌倉の極楽寺には千服茶臼という大きな茶臼があり、病気の人や貧民に抹茶を施与していたと思われる。『新編相模風土記』にも記録されているこの石臼は上臼の高さ一尺、下臼の高さ四寸で、同寺の子院・吉祥院釈迦堂前に現存している。

関連図版リスト: 茶の湯前史
 
解説:茶の湯前史

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