「杭瀬川図屏風」は語る
現存の『杭瀬川図屏風』
 右隻に慶長5年(1600)9月14日の「杭瀬川の戦い」を、左隻に彦根城(井伊家)本系統の図柄を用いた6曲1双の屏風のことを、ここでは『杭瀬川図屏風』と呼ぶ。筆者はこれまでに5点の写本を確認している。

〈1〉大垣市個人蔵本
   大垣市内の寺院に伝来。伝来の経緯は不詳。
〈2〉垂井町個人蔵本
   安政年間に不破郡の旧家が所蔵。
〈3〉行田市郷土博物館蔵本
   岐阜県内の旧家が旧蔵。岐阜県知事を務めた湯本家に贈られたもの。
〈4〉関ヶ原町個人蔵本
   明治以降の制作と思われる簡略本。
〈5〉関ヶ原町個人蔵本(関ヶ原ウォーランド展示)
   伝来の経緯は不詳。損傷が著しいが個々の描写はかなり詳細。


『杭瀬川図屏風』の成立時期
 別項の「西美濃地方と関ヶ原合戦図屏風」でふれた彦根城(井伊家)本系統の屏風〈1類〉については、江戸後期頃に彦根藩の関係者間で制作されたと思われる写本3点が現存し、このうち1点は嘉永7年(1854)に写したとの記録がある。彦根城本系統の図柄が大垣藩周辺に普及した後、江戸後期頃になって『杭瀬川図屏風』が成立したと考えられる。
 現存する屏風は、描写の手法・未完結部分・誤記等から写本と思われる。画面の完成度や位置関係の正確さに相当な差があり、同一の原本から直接ではなく、写本から写本へ写しついだと推定できる。


右隻の画題
 慶長5年(1600)9月14日の「杭瀬川の戦い」を主題とする。中段を流れる杭瀬川を境に、上段に岡山から南宮山周辺までの詳細な東軍諸将の配陣を、下段4〜6扇に両軍の交戦を描く。4扇下段に東軍中村一栄家臣野一色頼母、6扇下段に西軍勇将島左近の名が読みとれる。
 戦場以外を見てみよう。1扇下段には、振り分け荷物に腰を下ろし「煙草をくゆらす旅人」が、2扇下段には、戦見物の「浅草観音寺」と「鹿嶋大宮司」が、3扇下段には、「酒売りと雑兵たち」がいる。こうした人物は、これまで絵師の独創性と[遊び心]で描かれたと解釈されてきた。
 だが、見物人や酒売りが戦場に居合わせた記録はない(注1)。もし単なる[遊び心]であれば、川向こうにさりげなく描けばよいのであって、もっと別の意味が込められているのではないかと推測できる。


見物人は語る
 「浅草観音寺」と「鹿嶋大宮司」は、関東八州の地にある徳川家康と深く結びついた信仰の象徴として描かれたのではないだろうか。「煙草をくゆらす旅人」について『杭瀬川図屏風』の写本を比較すると、その中には背に「八」と書かれたものがあり、これは、武運の神「八幡神」、「八幡大菩薩」の象徴と推定される。6扇下段隅の島左近も、旗指物に「鬼子母善神十羅刹女」と「八幡大菩薩」の文字をもっている。右に見物人、左に島左近を置いたこの絵は、東西両軍で神仏を比べた構図とも受けとれる(注2)
 見物人が神仏なら、「酒売り」つまり「酒」は、[供物]と解釈できる。遠く対岸に岡山本陣を臨む位置に描かれた[酒売り]たちは、のちに神格化された家康への[供物]の意も暗示する。翌日の勝利を約束して祝う「酒」を、東軍雑兵たちはふるまわれているのである。
 見物人は、眼前の戦いと同時に岡山周辺の東軍、つまり決戦地を見守っている。勝利を祈願する神仏として、絵師は、彼らを川の手前に置いて存在を主張し、目立つように描く必要があったのではないか。


左隻の特徴
 左隻は、彦根城(井伊家)本系統〈1類〉の図柄を用いているが、現存する3点の彦根城本写本と意図的に変えられた描写がある。
 〈1類〉彦根城(井伊家)本系統の写本には以下のような屏風が現存する。

 【1】彦根城博物館所蔵本(旧彦根藩主井伊家伝来)
 【2】木俣家所蔵本(旧彦根藩井伊家家老)
 【3】関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵本

 1扇下段、葵紋幔幕と松の木の間で「伍」の旗指物の使い番が戦況を報告する。奥の家康(具体的に描かれない)に取りつぐ人物が、近習として関ヶ原へ参戦した戸田氏鉄である。氏鉄は、関ヶ原以後、膳所三万石、尼崎五万石を経て、寛永12年(1635)大垣藩十万石の初代藩主となった。氏鉄のそばに「鎧櫃」がある。ところが【1】を見ると、この部分には「床几」が描かれている。「床几」を「鎧櫃」に変えることで周囲の空間が増え、まるで戸田氏鉄を引き立て、強調しているかのようだ。また、【3】を見ると、「床几」脚部が黒く塗られ、「鎧櫃」に通じる。3扇上段の石田隊の意匠を「丸囲み」している点とあわせて興味深い。


屏風に隠された配慮
 「杭瀬川の戦い」は、小規模とはいえ東軍唯一の負け戦であった。大垣藩は、幕府への相当な配慮を必要として描いた。右隻の主役は東軍の配陣記録と奮戦で、負け戦とは分からない。また、「負け戦」の最中も、見物人の姿を借りた神仏が見守り、酒売りが決戦の勝利を予言してくれているのである。「鹿嶋大宮司」「浅草観音寺」「八幡大菩薩」は家康が重んじた鎌倉幕府開府に結びつき、のちに江戸幕府を開いた正当性をも暗示する。戦いの経緯を語るために本来描かれるべき西軍の拠点、大垣城の姿はない。だが、対岸岡山では戸田氏鉄がひかえている。城を描かずして戸田家の由緒を語り、左隻へとつながるのである。


制作された背景
 『杭瀬川図屏風』が描かれた主な目的は合戦の記録ではない。大垣藩関係者は、関ヶ原以降発展した一族の活躍と由緒を示すために屏風を制作させた。杭瀬川や岡山の周辺は、江戸後期には大垣藩領や預所となり、関ヶ原参戦時だけでなく、その後の大垣藩と戸田家一族の栄誉にとって欠かせない土地である。屏風の制作にあたり、右隻の杭瀬川という「土地」と、左隻の若き日の戸田氏鉄という「由緒」は当然必要とされ選ばれた。「負け戦の地」を描く必然があったから、描いても許されるように神仏を見立てた。左隻の戸田氏鉄の描写に加え、右隻でこれほどの配慮をするべき発注者は、やはり藩主に極めて近い大垣藩関係者が想定できよう。
 『杭瀬川図屏風』は、広範に図柄が普及し写本が制作された。「長篠・小牧長久手合戦図屏風」や彦根城本「関ヶ原合戦図屏風」の写本が、大名家や家老家という限定された関係で制作された場合とは事情が異なる(注3)。右隻は図柄が広まることを予測し、配慮して制作された可能性もある。この点については現存資料をさらに検証し、より原本に近い資料の発見を待って考察を深めたい。



(注1)
合戦図屏風に戦場と関係ない人物が描かれる例として、大阪市立博物館所蔵『重要文化財 関ヶ原合戦図屏風』右隻8扇中段「街道で足止めをくらう旅人」や、和歌山県立博物館所蔵『川中島合戦図屏風』右隻5扇下段「天海(武田信玄の祈祷師)の後ろ姿」が知られている。

(注2)
江戸東京博物館学芸員原史彦氏のご教示による。

(注3)
高橋修氏(茨城大学人文学部助教授、前和歌山県立博物館学芸員)のご教示による。本稿における各資料の基本情報の多くは前掲の「戦国合戦図屏風の世界」を参照させていただいた。


 本稿の作成にあたり、太田三郎氏(元岐阜県歴史資料館長)、清水進氏(岐阜県史専門調査員)、高木優榮氏(関ケ原町歴史民俗資料館長)、高橋修氏(茨城大学人文学部助教授、前和歌山県立博物館学芸員)、原史彦氏(江戸東京博物館学芸員)の各氏より、多くのご助言ご指導をいただきました。末尾ながら記して感謝申し上げます。
大垣市教育委員会学芸員 古田麻美
「杭瀬川の戦い」とは

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