西美濃地方と関ヶ原合戦図屏風
はじめに
 岐阜県西美濃地方、旧大垣藩周辺には多くの「関ヶ原合戦図屏風」が残されている。よく知られた場面や地名が描かれ、武将の名も読みとれて興味深い。  こうした屏風は合戦後まもなくではなく、200年以上の時間を経た江戸後期頃に描かれ、さらに写本や簡略本が伝えられた。それぞれの屏風には、制作された時代や発注者の[合戦観]や[意図]が強く反映されている。


西美濃地方周辺に伝わる屏風
 西美濃地方周辺に伝わる屏風は、大きく3つに分類できる。いずれも彦根城(井伊家)本系統の図柄を使用している点が共通する。なんらかの機会に彦根藩関係者から大垣藩周辺へ図柄が伝えられたことがきっかけとなり、制作されるようになったと考えられる。

3つの分類とは、

1類
嘉永7年(1854)に彦根城(井伊家)本を直接写した写本。6曲1隻。
もとは大垣城下に伝わっていたという。3点の写本が現存している。
関ケ原合戦図屏風彦根城博物館蔵
関ケ原合戦図屏風関ヶ原町歴史民俗資料館蔵

2類
慶長5年(1600)9月14日大垣城下であった「杭瀬川の戦い」を右隻、〈1類〉の彦根城本系統の図柄を左隻とするもの(本稿ではこれを『杭瀬川図屏風』と呼ぶ)。6曲1双。
江戸後期頃大垣藩周辺で成立したと考えられる。筆者は5点の写本を確認している。
関ケ原合戦図屏風(杭瀬川図屏風)垂井町個人蔵本
他の所蔵先=大垣市個人、関ケ原町個人、関ヶ原ウォーランド、行田市郷土博物館

3類
彦根城(井伊家)本系統の図柄をもとに幕末頃に制作されたもの。6曲1双。
金地を用い、装飾調度品的な目的が強い。不破郡の旧家に伝来。
関ケ原合戦図屏風大垣市内個人



なぜ屏風は描かれたのか
 こうした屏風はなぜ制作されたのだろうか。  まず、他の合戦図屏風と同様に、戦いに関する人物(一族)の活躍をたたえ由緒を示す目的があった。屏風に[過去]の合戦を描き、[現在]の繁栄を証明するのである。たとえば、〈2類〉左隻1扇下段に戸田氏鉄が引き立つように描かれている。関ヶ原参戦当時、氏鉄は家康の近習で五千石の旗本にすぎなかった。関ヶ原以後に発展し、寛永12年(1625)に十万石大垣藩主となり、戸田氏は明治まで大垣藩を治め栄えた。
 大垣藩が「関ヶ原」の地に近いことも重視したい。たとえば、家老戸田縫殿家(二代藩主から分家)に残された「関ヶ原の戦い」の陣形図は、地元大垣城から岡山周辺を詳しく記し、後世の藩士が検証した修正や加筆もある。当地としての関心や兵法上の研究も、屏風を制作する下地となったのだろう。
 そして、彦根城本は関ヶ原合戦全体が効果的にまとめられ、装飾調度品としても優れている。屏風は、絵巻や物語よりも一目で分かりやすく、かつ、大勢の人に見せることができる。これも、図柄が広まっていった理由のひとつだろう。
 とくに、〈2類〉『杭瀬川図屏風』は、1997年、高橋修氏(茨城大学人文学部助教授、前和歌山県立博物館学芸員)が、左隻と彦根城本系統との相違点などから大垣藩周辺で独自に成立したと推定し、注目されるようになった(詳しくは、高橋修著『戦国合戦図屏風の世界』1997年・和歌山県立博物館発行を参照のこと)
 次項で『杭瀬川図屏風』を詳しく見てみよう。

「杭瀬川図屏風」は語る
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