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「戦国合戦図屏風」とは何か 16世紀、武家社会において、書院造による御殿の建設が本格化すると、大きな広間を自在に間仕切る遮蔽具である屏風が、調度品として備えられるようになる。屏風には、通常、装飾として絵画が施され、近世にかけて多くの優れた作品が創作された。画題によって、これを分類すれば、四季の花木に鳥獣を組み合わせた「花鳥図」、四季の情景を題材とする「景物図」、中国の雄大な自然を描く「山水図」、中国の聖賢を描く「人物図」、古典の中から特定の場面を再現した「物語図」、祭礼や遊楽の中に時代の意匠を写し取る「風俗図」等に整理することができる。「戦国合戦図」も、こうした近世屏風絵の主要な画題のひとつであり、大きな作品群を構成している。 「戦国合戦図屏風」とは、戦国期から天下統一期にかけて起った特定の合戦の全体像を、個々の人物描写と群集表現とを組み合わせて、豪華・華麗に再現した屏風絵群の総称である。現在、全国各地に60を越える作品が存在する。その大半が大名家において製作された、いわゆる「大名屏風」と推測されている。 「戦国合戦図屏風」の成立 幕藩体制が成立して約1世紀の間、すなわち17世紀を通じて、多くの優れた「戦国合戦図屏風」が製作されている。幕藩大名は、戦国期から天下統一期にかけての戦争を生き抜くことによって、体制内に家格と領地を認められた存在であった。大名家では、幕藩体制下におけるその地位が、自らにふさわしいものであることを説明しようとする時、「戦国合戦」の中に家の起源を位置付ける必要があった。いわば「戦国合戦」という「神話」を管理することが、大名家には常に求められていたのである。 大阪城天守閣に所蔵される「大坂夏の陣図屏風(*1)」は、右隻に両軍の配陣のありさまを克明に描写し、その中に黒田長政隊を位置付けることによって、福岡黒田家の由緒を説明している。左隻には、あえて落城の悲惨な光景を活写し、黒田家もその成立に役割を果たした幕藩体制のもとに実現された「平和」の意義を説いている。 和歌山県立博物館所蔵の「川中島合戦図屏風(*2)」は、紀州徳川家の初代頼宣が製作を命じた作品と考えられている。越後流軍学を奉じた頼宣が、甲州流を御家流とする幕府徳川家にも替わりうる軍事的能力を備えた家柄であることを証明するために、上杉謙信が武田信玄に大勝する川中島合戦像を創出したのである。 関ケ原合戦に関しては、大阪市立博物館蔵「関ケ原合戦図屏風(*3)」が、この時期の成立である。縦194センチ、横590センチの八曲二双(現存は一双)という巨大な規格をもつこの作品は、徳川家康が自ら所持したものという。家康の姿が容易に判別できるのに対して、その他の武将の特定はきわめて困難である。秀忠軍の遅参により、譜代を中心とする徳川本隊が戦場になく、反石田の豊臣恩顧大名たちの活躍によりもたらされた勝利は、そのままでは徳川幕府の成立を説明する合戦としてふさわしくなかった。そのため家康ただ1人の勝利として、関ケ原合戦像が組替えられ、あらためて諸大名に提示されたのである。 (*1)「大坂夏の陣図屏風」大阪城天守閣蔵 (*2)「川中島合戦図屏風」和歌山県立博物館所蔵 (*3)「関ケ原合戦図屏風」大阪市立博物館蔵 「戦国合戦図屏風」の展開 幕藩体制が確立する18世紀に入ると、新たな「戦国合戦図屏風」の製作は、ほとんど行われなくなった。ところが19世紀に入り、幕藩体制が行き詰まり、人々に変革が意識されるようになると、再び大名たちは「戦国合戦図屏風」の製作に熱心に取り組むようになる。 17世紀に成立した成瀬家蔵「長篠・小牧長久手合戦図屏風(*4)」は、19世紀になると、将軍家斉の上覧に供されたことをひとつのきっかけとして、広く武家社会にその存在が知られるようになった。閲覧・貸出し用の副本も作られ、多くの写本が製作された。この頃、成瀬家では、尾張藩付家老という陪臣としての地位を脱し、譜代大名に準じた地位を獲得しようとする運動に取り組んでいた。その際、徳川に天下をもたらす起点となった両合戦において、譜代大名諸家の祖先たちにも勝る成瀬家の始祖正一・初代正成の活躍を描くこの屏風の図様は、運動に歴史的根拠を与えるものであり、実は成瀬家の側から作品の周知・普及が積極的にはかられたのである。 米沢市立上杉博物館蔵「川中島合戦図屏風」は、和歌山県博本からの多くの借図をもとに、新たに創造された川中島合戦図である。勝山城博物館や京都府個人も、類似した作品を所蔵しており、それがかなり普及した図柄であったことがうかがわれる。「士風の高揚」が叫ばれた時期、再び注目を浴びるようになった紀州藩の越後流軍学者が、製作に関与している可能性が高い。 「関ケ原合戦図屏風」についてみれば、この時期、新しい図様を持つ作品が生み出されている。井伊家伝来の「関ケ原合戦図屏風(*5)」(彦根城博物館蔵)は、もとから一隻屏風として構想されており、井伊の赤備えの活躍を中心に合戦像を構成する。井伊家の屏風は、早くに西美濃地方に伝播し、多くの写本が作られたようである(例えば垂井町個人蔵本(*6)、行田市郷土博物館蔵本等)。これらの作品においては、右隻に前哨戦である杭瀬川合戦図が加えられている点が、最大の特徴である。さらに井伊家本を写した左隻においても、家康本陣の将兵や武具が整理され、戸田氏鉄の姿が強調されていることに気づく。製作動機こそ不明であるが、これらの作品は、大垣城主戸田家の周辺において製作され、その際に、左隻では初代氏鉄を中心に家康本陣を構成しなおし、新たに城下杭瀬川における前哨戦を右隻に加えて、一双となしたものと推察される。 岐阜市歴史博物館蔵「関ケ原合戦図屏風(*7)」もまた、この時期の成立である。浮世絵や錦絵に通じる斬新な人物表現をみせる優品であるが、基づいた資料や伝来などについては、いまだあきらかにされていない。 茨城大学助教授 高橋修
(*4)「長篠・小牧長久手合戦図屏風」成瀬家蔵(*5)「関ケ原合戦図屏風」彦根城博物館蔵 (*6)「関ケ原合戦図屏風(杭瀬川図屏風)」垂井町個人蔵本 (*7)「関ケ原合戦図屏風」岐阜市歴史博物館蔵 《主な参考文献》 『戦国合戦絵屏風集成』1〜5(1980年、中央公論社) 『別冊歴史読本 戦国合戦図屏風』(1995年、新人物往来社) 『戦国合戦図屏風の世界』(1997年、和歌山県立博物館) |
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