| 鳥居元忠 とりいもとただ 1539(天文8) - 1600(慶長5) | |
| 13歳の時、駿府に赴いて人質時代の家康に仕える。その後数々の合戦に武功をあげる。関ヶ原の緒戦に伏見城守将となり、石田三成の降伏勧告を拒絶、討死をとげる。 |
| 天海 てんかい 1536(天文5) - 1643(寛永20) | |
| 14歳で比叡山に上って天台宗の奥義を極め、周易にも通じる。家康、秀忠、家光の帰依を受け、1616(元和2)年には大僧正に任ぜられる。比叡山の復興に尽力し、日光山の造営、あるいは東叡山寛永寺の開祖となり、1648(慶安元)年には慧眼大師の名を贈られる。1637(寛永14)年から天海版「大蔵経」の校刻を開始し、家康が没した際には以心崇伝本多正純に勝って家康の神号を大権現と決定。著作に「異部見文述掟書」「真宗伝記」。 |
| 後柏原天皇 ごかしわばら 1464(嘉吉2) - 1526(大永6) | |
| 1500年(明応9)践祚。在位は戦国時代にあたり、朝廷の経済は窮乏し、即位式も践祚から22年目に本願寺光兼らの献金で行われた。天皇は朝儀の復活に努め、また痘瘡流行の際には般若心経を書写して万民の安穏を祈念したことで知られる。仏教を深く信仰し、また詩歌管絃や書道にも堪能であった。104代天皇。 |
| 朝山日乗 ちょうざんにちじょう ? - 1577(天正5) | |
| 1532(天文元)年、後奈良天皇から日乗上人の号を賜る(伝)。信長に重用されていたが、フロイス・ロレンソとの宗論に敗れて信長の信頼を失う。 |
| 三好長慶 みよしながよし(ちょうけい) 1523(大永3) - 1564(永禄7) | |
| 1532年(天文元)に家督を継ぐと、管領細川勝元の家宰となって勢力を拡大。その後将軍、主家を追い払って京都の実権を握る。さらに家老松永久秀の補佐によって畿内を制圧するが、やがて久秀にその座を脅かされる。連歌の才に長じた。 |
| 天野康景 あまのやすかげ ? - 1613(慶長18) | |
| 1565(永禄8)年、家康によって三河奉行のひとりに任命され、る。1607(慶長12)年、康景の家来が幕府の百姓にケガを負わせたため、小田原の西、念寺に蟄居させられる。 |
| 蒲生氏郷 がもううじさと 1556(弘治2) - 1595(文禄4) | |
| 1568(永禄11)年、人質として信長に送致され、信長の女(冬姫)と結婚。後に秀吉に仕えて、その頃、受洗してキリシタン大名(レオンと称した)に。九州征伐、小田原合戦を経て1590(天正18)年に会津若松城主となる。毒殺説もある。 |
| オルガンティーノ おるがんてぃーの 1530(享禄3) - 1609(慶長14) | |
| 1570(元亀元)年に来日。信長の厚遇を受け、京畿伝道に尽力。烏児干伴天連(ウルガンバテレン)として名を馳せる。 |
| 筒井順慶 つついじゅんけい 1549(天文18) - 1584(天正12) | |
| 1571(元亀2)年、松永久秀が信長に謀反を企てた時に明知光秀と組んでこれを阻止。山崎の合戦に際して洞ケ峠に軍を待機させて情勢を静観し続け、最後は秀吉についたため、「順慶流」は後に二股をかけるの意に。 |
| 奥平信昌 おくだいらのぶまさ 1555(弘治元) - 1615(慶長20) | |
| 1573年(天正元)、父とともに甲斐武田氏に背いて家康に帰降。長篠の合戦では長篠城を固守し、織田・徳川連合軍大勝の起因をつくった。そのほか武田征伐、小牧の役、小田原征伐、関ヶ原の戦いに参戦して信長から諱を、家康から娘の亀姫を与えられた。1601年(慶長6)、美濃加納10万石藩主となる。 |
| 有馬晴信 ありまはるのぶ 1567(永禄10) - 1612(慶長17) | |
| 1579(天正7)年に受洗し、ジョアン=プロタシオと称する。肥前日野江城主で、同地はキリスト教の中心地となった。1582(天正10)年に大友宗麟らとローマ法王に少年使節を派遣。文禄及び慶長の役にも従軍し、関が原の戦いでは家康軍につく。1609(慶長14)年に長崎でポルトガル船マードレ・デ・デウス号を撃沈したが、岡本大八事件の科を受けて甲斐郡内に流され、斬首の刑(自殺説も)。 |
| 神谷善四郎貞清 かみやそうたん 1551(天文20) - 1635(寛永12) | |
| 1582(天正10)年、島井宗叱と共に上洛し、本能寺の変にあうが、床にあった遠浦帰帆の一軸を引き外して逃れる(伝)。秀吉に接近して、利休に茶湯を学ぶ。関が原の戦い後は黒田藩の御用商人に堕し、家伝の名物博多文琳を没収される。著書に『宗湛日記』。 |
| 細川勝元 ほそかわかつもと 1430(永享2) - 1473(文明5) | |
| 16歳で室町幕府の管領職に任じられて後、三たび通算21年間職をつとめた。禅を深く信じ、竜安寺、竜興寺を建立。文化人でもあった。足利義尚(よしひさ)と義視(よしみ)の継嗣争いに義視を支持。西軍の総帥宗全と対立して東軍の総帥となり、将軍義政を奉じて応仁の乱を戦った。1473年(文明5)、宗全についで勝元も病死し、6年にわたる戦乱は小康状態となる。 |
| 丹羽長秀 にわながひで 1535(天文4) - 1585(天正13) | |
| 16歳で信長に仕え、戦功あって1571年(元亀2)江州佐和山城主となる。本能寺の変が起こると秀吉軍に加わり、清州会議で織田四宿老の一人となる。賎ケ岳の合戦後、越前一国、加賀二郡を領有し、越前府中の城主となる。 |
| 春日局 かすがのつぼね 1579(天正7) - 1643(寛永20) | |
| 稲葉正成の妻。家光の乳母で、大奥の実権を掌握していた。秀忠が家光の弟・忠光を後継ぎにしようとしているのを知り、家康に家光を世子に定めるよう説得した。 |
| 狩野孝信 かのうたかのぶ ? - ? | |
| 永徳の子。禁裏絵師。 |
| 狩野光信 かのうみつのぶ ? - ? | |
| 永徳の子。信長の画事。 |
| 狩野宗秀 かのうそうしゅう ? - 1601? | |
| 永徳の弟。1594年に「一遍上人絵巻」を最上義明に寄進。ほかに「四季花鳥図屏風」などが有名。 |
| 狩野松栄 かのうしょうえい ? - ? | |
| 永徳の父。 |
| 尼子経久 あまごつねひさ 1458(長禄2) - 1541(天文10) | |
| 塩谷掃部介に月山富田城を奪われるが、1486(文明18)年に奪回し、出雲を中心に領土を拡大する。毛利氏との戦いで長子を失う。 |
| 榊原康政 さかきばらやすまさ 1548(天文17) - 1606(慶長11) | |
| 桶狭間の合戦後、家康に仕える。1564年(永禄7)、三河吉田城攻めに旗本の先鋒をつとめ、以後、常にこの役を果たした。「徳川四天王」の一人で、剛毅をもって知られた。家康の関東入国後、上野館林を領有。 |
| 本多正純 ほんだまさずみ 1565(永禄8) - 1637(寛永14) | |
| 家康の家臣。宇都宮城主。1622(元和8)年、勘気を蒙って出羽由利に配流される。正信の子。 |
| 本多重次 ほんだしげつぐ 1529(享禄2) - 1596(慶長元) | |
| 家康の家臣。直情径行として知られ、妻に書いた「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ」で有名。 |
| 松平忠吉 まつだいらただよし 1579(天正7) - 1607(慶長12) | |
| 家康の四男。徳川四天王の一人、井伊直政は岳父にあたり、関ヶ原の戦いでは直政に従い、先鋒・福島政則を差し置いて決戦の火蓋を切る抜け駆けを行ったともいわれる。さらに退却する島津義 弘隊を直政とともに追撃、負傷してもなお追撃しようとした。戦後は尾張国清洲城主となるが7年後の1607年(慶長12)に没した。享年28歳。 |
| 徳川秀忠 とくがわひでただ 1579(天正7) - 1632(寛永9) | |
| 家康の第三子。関が原に向かう途中、真田昌幸に妨害されて戦いに間に合わず、家康に叱責を受ける。軍職を譲られてからは幕府組織のインフラを整備し、統治体制を強化。 |
酒井忠次 さかいただつぐ 1527(大永7) - 1596(慶長元) | |
| 家康の幼時よりを輔佐してきた徳川四天王のひとり。三方ケ原、長篠、小牧の戦いで功を立てる。妻は家康の叔母。 |
| 島津義久 しまずよしひさ 1533(天文2) - 1611(慶長16) | |
| 貴久の長男、義弘の兄。父の後を継いで薩摩・大隅・日向の守護に。1586年、大友氏・龍造寺氏・有馬氏と争って九州をほぼ全土にわたって勢力下におく。翌年、秀吉に降伏し、薩摩・大隅に封ぜられた。 |
| 吉田兼見 よしだかねみ 1535(天文4) - 1610(慶長15) | |
| 吉田兼右の長男。梵舜の兄。神祇官八神殿を吉田神社境内に再興することを許可され、兼倶の意志を達成。著書『兼見卿記』には中央政権の推移などが記されている。 |
| 朽木元綱 くつきもとつな 1549(天文18) - 1632(寛永9) | |
| 近江朽木城主。三好一党が京都の将軍義昭を攻めた時、いち早く駆けつけて信長が救援にくるまで防戦。信長の朝倉攻めの際には、その背後を浅井氏に衝かれて京都に逃げ帰る途中の信長を迎えて、案内役をつとめた。関ヶ原の戦いでは途中で徳川方に寝返って、大谷吉継の陣を攻めた。大坂の陣でも軍功をたて、隠居料3千石を与えられた。 |
| 京極高次 きょうごくたかつぐ 1563(永禄6) - 1609(慶長14) | |
| 近江源氏の佐々木京極家18代目の当主。1568年(永禄11)、信長の近江入りの際、父とともにいち早く臣従を誓い、6歳の高次は信長の人質となった。本能寺の変では明智方に加わるが、妹が秀吉の側室となったために許され、大津城主となる。妹の尻の光で出世したホタル大名と呼ばれた。関ヶ原の戦いには徳川方につき、その功によって若狭小浜城主に封じられた。 |
| 滝川一益 たきがわかずます 1525(大永5) - 1586(天正14) | |
| 近江甲賀郡滝城主。柴田勝家の世話で信長に仕える。通称彦右衛門。鉄砲の名手で戦争のたびに先鋒をつとめて武功をたて、左近将監となる。信長の死後は三男信孝を助け秀吉と戦うが敗れる。 |
大谷吉継 おおたによしつぐ 1559(永禄2) - 1600(慶長5) | |
| 九州大友家滅亡により流浪したが、石田三成の推挙により秀吉に仕える。秀吉が天下を平定したとき越前敦賀城主となる。30歳頃から癩病を病み、両眼を失うにおよんで解職を願うが許されなかった。関ヶ原の戦いでは西軍に投じ、壮烈な最期をとげた。 |
| 狩野山楽 かのうさんらく 1559(永禄2) - 1635(寛永12) | |
| 元は秀吉の小姓。秀吉に仕えて大阪城、聚楽第、天王寺などに描いた。動的描写に秀れ、永徳よりも大和絵の比重が高い。墨画に松鷹図、山水図。金碧に紅梅図、金碧牡丹図。ほかに文王呂尚商山四皓図、厳子陵虎渓三笑図。金碧馬図絵馬、帝鑑図が有名。その子孫が京都に住んだために京狩野と称される。永徳の養子。 |
吉川広家 きっかわひろいえ 1562(永禄5) - 1625(寛永2) | |
| 元春の三男。兄元長が出陣中に没したため家を継ぎ、毛利両川の一翼をになって宗家を補佐した。文禄元、慶長2年には朝鮮出兵にも参戦。関ヶ原の戦いでは毛利輝元の代理となって出馬するが、早くから家康へ内応して決戦には動かず、戦後の毛利家存続に大役を果たした。 |
| 長曾我部盛親 ちょうそがべもりちか 1575(天正3) - 1615(元和元) | |
| 元親の四男。長兄信親なき後、次男、三男をしのいで家督を継ぎ、土佐浦戸城主となる。関ヶ原の戦いでは小早川軍の裏切りに遭って壊走、所領を没収された。のち幽夢と号して京都に蟄居するが秀頼の招きで大坂に入城。夏の陣で藤堂高虎を破るが、落城後捕えられ三条河原で斬首された。 |
| 後土御門天皇 ごつちみかど 1442(嘉吉2) - 1500(明応9) | |
| 後花園天皇の第1皇子。1464年(寛正5)践祚。在位の間に応仁・文明の大乱が起こり、後花園上皇とともに避難をよぎなくされる。地方武士に皇室領を奪われ、幕府からの進献も乏しく、朝儀も途絶えがちとなったが、天皇は朝儀の維持存続を心がけ、有職故実の研究や儀式の習礼を廷臣に奨励した。また和歌、連歌に長じ、『紅塵灰集』『いその玉藻』などの歌集がある。103代天皇。 |
| 明正天皇 めいしょう 1623(元和9) - 1696(元禄9) | |
| 後水尾天皇と皇后和子 (徳川秀忠の女東福門院)の間に生まれた第2皇女。1629年(寛永6)、父の後水尾天皇が突然退位したため即位。奈良時代の称徳天皇以来の女帝となるが、在位15年で弟の後光明天皇に譲位。109代天皇・女帝。 |
| 正親町天皇 おおぎまち 1517(永正14) - 1593(文禄2) | |
| 後奈良天皇の第1皇子として生まれる。1557年(弘治3)践祚(せんそ)したが費用がなく、3年後に毛利元就の献金を得て即位式をあげた。68年(永禄11)、織田信長が足利義昭を奉じて入京した後、宮廷も復権、式典も行われるようになった。106代天皇。 |
| 後奈良天皇 ごなら 1496 (明応5) - 1557(弘治3) | |
| 後柏原天皇の第2皇子。公家のもっとも衰微したときの践祚だったため、 即位式は大内、今川、後北条氏らの大名からの献金を得て、10 年後にようやく行った。戦乱や災害による飢饉 や疫病に苦しむ庶民のため、諸国一宮に宸筆の〈般若心経〉を奉納した。105代天皇。 |
| 後水尾天皇 ごみずのお 1596(慶長1) - 1680(延宝8) | |
| 後陽成天皇の第3皇子。母は中和門院近衛前子。1611年(慶長16)即位。将軍徳川秀忠の女和子(まさこ、のちの東福門院)を中宮としたため、外戚となった徳川氏は皇居を造営するなど尊崇の意を表した。しかし禁中並公家諸法度の制定など種々の干渉を加えたことに不満を募らせ、29年、突如、和子所生の興子内親王(明正天皇)に譲位。その後、明正・後光明・後西・霊元の4天皇、51年間にわたり院政をしいた。学問、和歌、連歌を好み、修学院離宮の造営でも知られる。108代天皇。 |
| 土佐光茂 とさみつしげ ? - ? | |
| 光信の子。光吉の父。 |
黒田長政 くろだながまさ 1568(永禄11 - 1623(寛永元) | |
| 孝高の子。14歳で播州三木城攻めに初陣。文禄の役には先鋒となって渡海、小西行長の危機を救った。その後石田三成らの文治派と対立。関ヶ原の戦いでは家康に従い、その功により筑前一国の大封をうける。翌年より那珂郡福崎(福岡)に城と城下町を築き、近世福岡藩の地歩を固めた。 |
| 間直瀬道三 まなせどうさん 1507(永正4) - 1595(文禄4) | |
| 皇室、室町幕府、信長、秀吉、毛利元就、松永久秀などに出仕。富士茄子など十数点の名物を所有する茶人にして漢籍、聞香、和歌にも秀でる。 |
| 今井宗薫 いまいそうくん 1552(天文21) - 1627(寛永4) | |
| 今井宗久の長男。秀吉の茶頭。秀吉没後に、伊達政宗の女と家康の子忠輝の婚約をとりもったことで高野山に追放される。関が原の戦いで家康に属し、大坂の夏の陣で東軍に従い、家康没後には秀忠、家光と歴仕。 |
| 濃姫 のうひめ 1535(天文4) - ? | |
| 斎藤道三と小見の方とのあいだに生まれる。名は帰蝶。15歳で16歳の信長の妻となる。当時信長は「大うつけ」と言われており、濃姫は嫁ぐ際、道三から「信長が本当のうつけ者なら刺し殺せ」と短刀を渡されるが、これに対し濃姫は「この刀は父上を刺す刀になるかもしれません」と答えたという。道三の死後、岐阜城の近くにある常在寺に道三画像を寄進した以降の濃姫の消息はわかっていない。信長の子供を産むことなく死んだと推定されている。 |
| 小見の方 おみのかた ? - 1551(天文20) | |
| 斎藤道三の正室、濃姫の母。明智駿河守光継の長女。土岐頼芸(よりなり)に仕えていた道三は、小見の方との縁談を頼芸に頼む。頼芸は願いを聞き入れ、自ら晩酌人となって結婚を成立させた。小見の方と兄弟の嫡子、光綱の子が明智光秀で、道三に気に入られた光秀は鉄砲などを習ったという。 |
| 長束正家 なつかまさいえ ? - 1600(慶長5) | |
| 財政処理の能力を見込んで秀吉に召し抱えられる。五奉行の一人。小田原の陣や朝鮮の役には糧食の輸送に活躍した。秀吉の死後、家康に近づくが最後は三成に味方し、関ヶ原の敗戦後、帰路を徳川軍に囲まれて切腹。 |
| 小西行長 こにしゆきなが 1557(弘治3) - 1600(慶長5) | |
| 堺の薬商小西隆次の次男。宇喜多直家に仕えた後、秀吉の部下となり、水軍の将として敏腕を振るった。肥後の佐々成政の一揆を加藤清正とともに鎮圧し、宇土城主となる。秀吉の死後、三成と結んで関ヶ原に家康と戦い、敗れて六条河原で斬られた。熱心なキリシタンで、彼の刑死を聞いたローマでは、全市をあげて哀悼の祈りをささげたという。 |
| 豊臣秀次 とよとみひでつぐ 1568(永禄11) - 1595(文禄4) | |
| 三好吉房の子。始めは三好康長の養子となり、後に秀吉の養子に。小牧長久手の戦いでは三河侵入に失敗して池田恒興らを戦死させ、秀吉に叱責を受ける。1587(天正15)年に正三位権中納言に叙任。1591(天正19)年に秀吉の養嗣子となり、関白に就任して聚楽第を譲られる。文禄2年、秀吉に次男秀頼が生まれて秀吉と不仲になり、高野山に追放されて切腹。 |
| おあん おあん 1585(天正13) - 1665(寛文)年頃 | |
| 山田去歴の娘。関ヶ原の戦いで大垣城に立て籠もるも、脱出すれば助けるという家康からの手紙を見て家族で土佐へ逃れる(母親は途中で女児を出産)。 |
| 角倉了以 すみのくらりょうい 1554(天文23) - 1614(慶長19) | |
| 子孫三代に渡って安南貿易を行っていた京都の豪商(孫の厳昭の代で鎖国)。大堰川、富士川、天竜川、加茂川、高瀬川など国内諸河川の開発も手掛ける。 |
| おなべの方 おなべ ? - 1612(慶長17) | |
| 滋賀県近江八幡市の土豪・高畑源十郎の四女に生まれる。小倉右京実澄に嫁ぐが夫の死後、織田家臣の奥政景の仲介で信長の側室となる。信長との間に二男一女を産んだ。 |
| 龍造寺隆信 りゅうぞうじたかのぶ 1529(享禄2) - 1584(天正12) | |
| 七歳で出家し、父の死後に還俗。家臣・土橋栄益の謀反によって一時、肥前を逃れるが、1553(天文22)年に平定。肥前への進出を図っていた大友宗麟と対立し、鍋島高昌(直茂)の夜襲を機にこれを追い返し、さらに勢いづいて有馬氏、松浦氏、後藤氏と破って、1578(天正6)年に肥前全域一国を支配。1584(天正12)年、島津家久に敗れて戦死(自殺説もあり)。 |
| 狩野正信 かのうまさのぶ 1454(享徳3) - 1530(享禄3) | |
| 狩野派の始祖。周文に学び、俗人として水墨画家として初めて足利幕府の御用絵師になる。元信の父。景信の子。周茂叔愛蓮図(伝)。 |
| 梅雪 ばいせつ ? - 1579(天正7)? | |
| 珠光流。今井、津田など堺衆の進出により凋落。日野肩衝、芋頭水指などを所持し、著作に「不住庵数奇屋飾之制」「茶湯之書次第不同」。 |
| 豊臣秀勝 とよとみひでかつ ? - 1576(天正4) | |
| 秀吉が侍女に生ませた子。7〜8歳で死亡(伝)。秀吉は養子に迎えた信長の四男にも甥にも同じく秀勝と名付けている。 |
| 増田長盛 ましたながもり 1545(天文14) - 1615(元和元) | |
| 秀吉に仕えた五奉行のひとり(財政担当)。文禄及び慶長の役では軍事・行政の総指揮にあたり、1595(文禄4)年には大和郡山城主に封ぜられる。関が原の戦いでは西軍に属して大坂城を守り、戦後になって高野山に追放された。大阪の陣に子の盛次が豊臣についた責任を問われて自害(伝)。 |
| 豊臣秀長 とよとみひでなが 1541(天文10) - 1591(天正19) | |
| 秀吉の弟。賎ケ岳の戦い、紀州雑賀・四国征伐などで功を立て、1544(天正13)年に従三位参議、続いて権中納言、さらに正三位に叙任。翌年、九州征伐に従軍し、権大納言に。病没。 |
| 田中吉政 たなかよしまさ 1548(天文17) - 1609(慶長14) | |
| 秀吉の命令で秀次の家老となる。関ヶ原の戦いでは徳川方に与して佐和山城攻めに加わり、潜伏中の三成を捉えた功績で、筑後柳川城主にまで出世。吉政の死後、その子忠政が後を継いだが病死により、絶家となる。 |
| 木村重成 きむらしげなり 1592(文禄元) - 1615(元和元) | |
| 秀頼に仕え、強硬論を唱えて大阪冬の陣で功を立てる。翌年、夏の陣で井伊直孝に敗れて戦死。 |
| 加藤嘉明 かとうよしあき 1563(永禄6) - 1631(寛永8) | |
| 少年の頃から秀吉のもとに出仕。「賎ケ岳七本槍」の一人。慶長の役では水軍として出陣、巨済島などで殊勲をたてた。 |
真田幸村 さなだゆきむら 1567(永禄10) - 1615(元和元) | |
| 昌幸の次男。上杉景勝の質になったのち、秀吉に仕える。1614年(慶長19)大阪冬の陣では、外堀の脇に真田丸をつくり防戦し名をあげた。夏の陣を前に家康から招かれるが断り、家康の本陣に迫る戦いを繰り広げるがついに戦死。「真田日本一の強者」といわれた。 |
| 松永弾正 まつながだんじょう 1510(永正7) - 1577(天正5) | |
| 松永弾正が通り名。三好長慶に仕え、足利義、、輝を自殺させてからはやがてその実権を握るように。1568(永禄11)年、信長に下るが、将軍足利義昭と通じていたことが発覚し、信長に攻められ、その際に名器平蜘蛛を譲るよう要請されたにもかかわらず茶釜を粉々にしてから自害。逆臣の見本、もしくは性格破綻者ともいわれる。セックスの指導書を書き残したことでも有名。 |
| 上杉景勝 うえすぎかげかつ 1555(弘治5) - 1623(元和9) | |
| 上杉謙信の甥。妻は武田信玄の娘。武田勝頼の助けで謙信の後を相続。秀吉に属して朝鮮の役に出陣。従三位・中納言となり五大老の一人に抜擢された。慶長5年、徳川家康を討つために会津で挙兵するが降伏。大坂の陣には徳川方として戦い、徳川幕下の一大名として家を守った。 |
| 太田道灌 おおたどうかん 1432(永享4) - 1486(文明18) | |
| 上杉定正の執事。1457年、江戸城、川越城、岩槻城、鉢形城を築いて江戸城に住んだ(翌年、剃髪)。1477年、上杉家の家宰・長尾景春が主家に背いた時、上杉氏を助けて関東各地を転戦し、主家を隆盛に導いたが、告げ口によって定正に謀殺された。学問、和歌。歌集『慕景集』。 |
| 山内一豊 やまのうちかずとよ 1545(天文14) - 1605(慶長10) | |
| 織田信安、信長、さらに秀吉に仕える。小牧長久手の戦いで名を上げ、後に若狭高浜城主となる。関ヶ原の戦いでは家康についた。その妻・見性院が信長の閲馬の時に黄金十両を出して山内一豊に名馬を買わせて夫の立身に一役買い、関ヶ原の戦いでも天下の情勢を記した情報を送って家康を喜ばせたことで有名。 |
武田勝頼 たけだかつより 1546(天文15) - 1582(天正10) | |
| 信玄の四子。勇猛だが、思慮に乏しい。信長の養女と結婚。信玄の後を継いで信長・家康と争ったが、1575(天正3)年、長篠の戦いで鉄砲隊に大敗。上杉景勝と組んで再興を謀るも信長・家康に攻められて天目山で子信勝と共に自害。 |
真田昌幸 さなだまさゆき 1547(天文16) - 1611(慶長16) | |
| 信州上田城主。武田信玄・勝頼の重臣。天正13年上田攻めに向かった7千の徳川軍を撃破し、小信玄といわれた。その後豊臣秀吉に属し、関ヶ原の戦いでは石田三成にくみしたため、戦後罪を問われ高野山へ追放された。 |
| 織田秀信 おだひでのぶ 1580(天正8) - 1605(慶長10) | |
| 信忠の長男。1582年(天正10)、信長の後継者を定める清州会議で秀吉に推され、織田家相続人となる。関ヶ原の戦いでは西軍に与して岐阜に籠城するが、東軍の先鋒福島正則、池田輝政らに攻囲されて開城降伏。戦後は高野山に入り、失意のうちに没した。 |
| 沢彦宗恩 たくげんしゅうおん ? - 1587(天正15) | |
| 信長、岐阜、天下布武などの文字を選んだ僧。信長の帰依を受け、政秀寺の開山に招かれる。 |
| 佐々成政 さっさなりまさ 1537(天文6) - 1588(天正16) | |
| 信長に仕え、1575年(天正3)の越前朝倉攻撃に勲功あり、前田利家、不破光治とともに柴田勝家の与力大名として領国目付役となる。賎ケ岳の合戦、小牧の役と秀吉と戦うが85年(天正13)降伏。九州熊本に転封するが、領内一揆を鎮圧できなかったため切腹を命じられる。 |
| 堀吉晴 ほりおよしはる 1544(天文13) - 1611(慶長16) | |
| 信長に仕え、のち秀吉に仕える。石山合戦、中国平定、賎ケ岳の合戦に功名をあげる。九州鎮圧、小田原征伐でも活躍。慶長3年、豊臣三中老の一人に任ぜられた。 |
| 筒井定次 つついさだつぐ 1562(永禄5) - 1615(元和元) | |
| 信長に仕え、のち秀吉に属した。伊賀上野を与えられ伊賀守となる。関ヶ原の戦いでは徳川方に属したので本領を安堵された。晩年酒色に溺れ、失政を咎められて陸奥磐城平に配流されるが、走還が発覚し自刃を命ぜられた。 |
| 寺沢広高 てらさわひろたか 1564(永禄7) - 1633(寛永14) | |
| 信長に仕え、のち秀吉の臣となる。文禄の役では肥前名護屋城普請に加わる。関ヶ原の戦いでは東軍に属して岐阜城の攻略などで功をあげ、1601年(慶長6)、天草四万石を加封された。21年(寛永2)次男堅高(かたたか)に家督を譲る。弘高の没後、キリシタン弾圧と農民への圧政に対して一揆が蜂起、島原の一揆勢に合流して島原の乱となる。翌年、堅高は天草領を没収され、正保4年に発狂自刃。家は断絶した。 |
| 曽我直庵 そがちょくあん ? - ? | |
| 信長に滅ぼされた朝倉氏の越前で活躍した一派の祖。漢画を基礎とした個性の強い作品で知られる。虎渓三笑図屏風、花鳥図屏風、板地着色神馬図屏風、墨画鶏図、墨画竜虎図、着色商山四皓図屏風が有名。鷹を好んで描いた。 |
| 太田牛一 おおた 1527(大永7) - (1610以後) | |
| 信長の弓衆として仕え「弓三張の衆」として武功を重ねる。本能寺の変後は加賀国松任に隠棲したが、まもなく秀吉に仕え、山城の国の代官や検地奉行をつとめた。秀吉の晩年の頃から幾多の戦場経験をもとに軍記の執筆を開始。『信長公記』(しんちょうこうき)全16巻、『大かうさまくんきのうち(太閤様軍記の内)』などの著作がある。 |
| 浅野長政 あさのながまさ 1547(天文16) - 1611(慶長16) | |
| 信長の弓衆浅井長勝の養子となり、信長、秀吉と相次いで仕える(秀吉五奉行のひとり)。秀吉とは義兄弟にあたる。1584(天正)12年に京都奉行となり、文禄及び慶長の役では軍監として渡鮮。1599(慶長4)年、徳川家康暗殺事件に連座して武蔵府中に蟄居。関が原の戦いでは嫡子・幸長と共に家康につく。 |
| 荒木道薫 あらきどうくん 1535(天文4) - 1586(天正14) | |
| 信長の元で軍巧を立て、摂津茨城城主になるも、1578(天正)6年に謀反を起こして安芸に逃れ、信長没後は秀吉に従事。筆庵道薫と称して利休七哲に数えられた。荒木高麗、兵庫壷、寅申壷、姥口平釜など所持品が有名。 |
| 織田信孝 おだのぶたか 1558(永禄元) - 1583(天正11) | |
| 信長の三男。信長の伊勢征服によって、伊勢神戸城主・神戸具盛(とももり)の養子となる。信長に従って戦いに参戦。その死後は兄信雄とともに秀吉側の秀信と後継者争いをするが敗れる。 |
| 織田信雄 おだのぶかつ 1558(永禄元) - 1630(寛永7) | |
| 信長の次男。伊勢国司北畠具教(とものり)の子具房(ともふさ)の猶子となり、1575年(天正3)家督を継いで伊勢国司となる。本能寺の変後、織田秀信の後見人となる。賎ケ岳の合戦では秀吉と結ぶが、その後家康と通じた。小牧の役後、再度秀吉と講和するが小田原の陣後、秀吉の怒りにふれ、剃髪して常真(じょうしん)と号した。 |
| 織田信忠 おだのぶただ 1557(弘治3) - 1582(天正10) | |
| 信長の長男として尾張清州城で生まれる。1572年(元亀3)、近江小谷城の浅井長政を攻める。その後多くの戦いに参戦。82年(天正10)、明智光秀に攻撃され、役300名の家臣とともに二条御所を守り、火を放って自殺した。 |
| 織田長益 おだうらくさい 1547(天文6) - 1621(元和7) | |
| 信長の弟。本能寺の変後、秀吉に仕える。関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦うが、もともと武将としての気質はなかったようで、文化人として知られる。戦後は淀殿の叔父という関係で大阪城に留まっていたが、大坂夏の陣の直前に退去、晩年は京都で茶の湯の師匠として送ったという。利休七哲人の一人で、利休亡き後、茶道・有楽流を創始した。有楽斎の数寄屋の跡は“数寄屋橋”、また“有楽町”にもその名を残している。 |
| 狩野永徳 かのうえいとく 1543(天文12) - 1590(天正18) | |
| 信長や秀吉に仕え、安土城、大阪城、聚楽第の内部を金碧障壁画で飾った(大半は消失)。豪放かつ細密で華麗な装飾画で有名。代表作に上杉家洛中洛外図屏風、唐獅子図屏風、墨画許由巣父図など。宮廷絵師、土佐光信の娘を室にしたとされている。松栄の子。光信、孝信の父。山楽を養子とする。 |
池田輝政 いけだてるまさ 1564(永禄7) - 1613(慶長18) | |
| 信長及び秀吉に仕え、長久手、小田原に戦い、さらに家康の娘(督姫)を妻とし、関ヶ原の戦いでは先陣を切った。播磨52万石に封ぜられ、姫路城を築城。後に備前、淡路も得る。 |
| 教如光寿 きょうにょこうじゅ 1558(永禄元) - 1614(慶長19) | |
| 真宗大谷派本山東本願寺の始祖。父、顕如と共に石山合戦を戦うが、朝廷による和議の後でも信長と戦おうとしたため、父によって義絶され、石山を出て大和〜??江〜安芸〜紀伊〜大坂〜京都と転々としたあげく、父の死後に西本願寺第12世を嗣ぐ。准如を溺愛する生母の懇願によって秀吉によって退職を命じられる(伝)が、天下を平定した家康によって後陽成天皇の勅許を得て東本願寺を建立し、東西本願寺の対立が始まる。 |
| 長谷川等伯 はせがわとうはく 1539(天文8) - 1610(慶長15) | |
| 雪舟の門弟・等春に学び、上洛後は狩野派に影響を受ける。前田玄以の支持を得て大徳寺、祥雲寺、禅林寺などに金碧障壁画を残す。雄健な画風と称えられたが、晩年は水墨画へと回帰し、雪舟第五代を自称。松林図屏風、楓図、武田信玄像、三十番神図、仏涅槃図、千利休像などが有名。 |
| 藤堂高虎 とうどうたかとら 1556(弘治2) - 1630(寛永7) | |
| 浅井長政、羽柴秀吉・秀保に仕え、後に高野山に入るが、秀吉に呼び戻されて宇和島城主となり、文禄の役に従軍。関が原、大坂の陣で功を立て、伊勢・伊賀に封ぜられる。 |
| 海北友松 かいほうゆうしょう 1533(天文2) - 1616(元和2) | |
| 浅井長政の重臣、海北家の三男。京都で狩野元信に学んだと伝えられる。水墨画の影響が強く、筆数の少ない象徴的な表現(減筆体)を得意とした。永徳、山楽と共に桃山三名手とされる。竹林七賢図、飲中八仙図、山水図、草山水図、四季山水図、運竜図、浜松図などが有名。 |
| 高山右近 たかやまうこん 1552(天文21)? - 1614(慶長19) | |
| 洗礼名ドン・ジュスト。信長、秀吉に仕えて山崎合戦で巧を立て、播磨の明石に封ぜられる。少年の頃から熱心にキリスト教を信仰していたが、1587(天正15)年、秀吉の禁教令によって追放され、小西行長の領地に隠れ、さらに前田利家の客分となる。さらに1614(慶長19年)、江戸幕府によって海外に終われ、フィリピンのマニラで客死。利休七哲のひとり。 |
| 土佐光吉 とさみつよし ? - ? | |
| 繊細な細密画の技法と優美な色彩感で知られる堺の画人。源氏物語画帖。光信の孫。 |
| 今井宗久 いまいそうきゅう 1520(永正17) - 1593(文禄2) | |
| 足利義昭、信長、秀吉に仕えた茶湯天下三宗匠のひとりで、武野紹鴎の女婿(紹鴎没後に紹鴎名物を継承)。大徳寺黄梅院の昨夢軒、大和今井御坊の席が有名。著書に『今井宗久茶湯日記』。 |
| 土佐光信 とさみつのぶ 15〜16世紀頃 - ? | |
| 足利幕府の絵預預。土佐派中興の祖。屏風、肖像、絵巻、仏画など広範囲に制作。水墨画の技法を大和絵に取り入れ(娘を狩野元信に嫁がせたと伝えられることで)大和絵と唐絵の技法的交流にも貢献した。石山寺縁起四巻、北野天神縁起絵巻、清水寺縁起絵巻などを残す。光吉の祖父。広周といわれている。 |
九鬼嘉隆 くきよしたか 1542(天文11) - 1600(慶長5) | |
| 大隅守。伊勢国司北畠氏に属し「志摩海賊7人衆」の 一人に数えられたが、掟に背いておわれ、信長を頼った。1569年(永禄12)の伊勢攻めの時、軍船を率いて志摩に復帰、鳥羽城主となる。九州、小田原、朝鮮の役にも水軍として活躍。関ヶ原の戦いでは西軍に通じ惨敗、戦後自刃。 |
| 古渓宗陳 こけいそうちん 1532(天文元) - 1597(慶長2) | |
| 大徳寺第117世寺主。信長の冥福を祈る秀吉によって、古渓を開祖とする総見院を大徳寺に建立し、信長の葬儀にあたっては導師(起龕の役)を命じられる。万歳天正寺を建立しようとして石田三成と意見が対立し、一時、太宰府へ配流される。 |
| 安国寺恵瓊 あんこくじえけい ? - 1600(慶長5) | |
| 大内義隆に滅ぼされた安芸の守護、武田光弘の遺児と伝えられる。京都の南禅寺で修業した後、安芸の安国寺の住職となる。毛利輝元と深い交わりを結んでいたため、将軍義昭が信長との和睦を輝元に斡旋した際に上京し、信長・秀吉と折衝した。また秀吉の備中高松城攻めの際、毛利氏と秀吉との仲介役をつとめ、秀吉が天下をとると伊予6万石を与えられ、大名となった。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗戦後捕えられ三条河原で斬首された。 |
| 武野紹鴎 たけのじょうおう 1502(文亀2) - 1555(弘治元) | |
| 大林和尚から一閑居士の号を授けられた堺の最高権威者。三畳の小座敷を考案し、晩年は京都に大黒庵を開く。紹鴎名物といわれる60種もの名物道具を秘蔵していた。弟子に今井宗久、津田宗及、千利休ら。連歌師としても知られる。 |
| 山名宗全 やまなそうぜん 1404 - 1473(文明5) | |
| 但馬出石(いずし)に本拠をもつ守護大名。名は持豊(もちとよ)、宗全は法名。赤入道の異名で室町幕府で勢力を振るう。足利義尚(よしひさ)と義視(よしみ)の継嗣争いに、将軍義政の正室富子の依頼で義尚を支持。天下の守護大名を二分する応仁の乱となる。宗全は西軍の総帥として戦う。戦乱は6年つづき、宗全と勝元の病死により終息するが、争乱は地方へ移行、戦国乱世の誘因となった。 |
| 浅野幸長 あさのよしなが 1576(天正4) - 1613 (慶長18) | |
| 長政の長男。父とともに秀吉に仕える。14歳の時小田原の役に初陣を飾り、朝鮮の役で武将としての頭角を現わす。関ヶ原の戦いでは、秀吉恩顧でありながら三成との確執のため、父とともに東軍に属して先鋒を務め、岐阜城攻略に功をあげた。戦後、紀州和 歌山城37万余石の大封を与えられた。 |
| 津田宗及 つだそうぎゅう ? - 1591(天正19) | |
| 津田宋達の長男。信長、秀吉に仕えた茶湯天下三宗匠のひとりで、大林和尚から天信の号を授けられる。北野大茶会を主掌。宋達、宗及、宗凡による三代の茶会記が堺の『天王寺屋会記』として残されている。連歌、和歌、聞香、挿花など多趣味。宋達の子。 |
| 佐竹義重 さたけよししげ ? - ? | |
| 鉄砲隊を従えて(鬼義重の異名を取るほど)戦いに明け暮れた。1569(永禄)12年、小田城を占領。上杉景虎と共に佐野城を攻撃。北条氏とはいったん和議を結ぶが、その後、四度も決戦に及んで決着はつかず、伊達氏とも三戦。子の義宣が関ヶ原の戦いで敗れると、家康に弁明を願い出、処分を軽くしてもらっている。 |
| 快川紹喜 かいせんしょうき ? - 1582(天正10) | |
| 土岐氏。岐阜城主斎藤義竜と意見が合わず、崇福寺を出て武田信玄の招きによって甲斐の恵林寺に住むようになる。正親町天皇から大通智勝国師の号を賜る。信長の甲州討伐の際に武田勝頼をかくまったとして信長を怒らせ、寺に火を放たれるが、百名以上の僧衆とともに問禅を行いながら、「安禅は必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火自ら涼し」と唱えて火中に身を投じる。 |
| 長宗我部元親 ちょうそがべもとちか 1539(天文8) - 1599(慶長4) | |
| 土佐の豪族。信濃守国親の長子。1571(元亀2)年に一条家を追って土佐一国の実権を握る。阿波、讃岐、伊予を併呑して、1585(天正13)年に四国を統一するが、同年、秀吉に攻められて降伏し、以後は土佐一国を領するようになる(阿波は蜂須賀家政に、讃岐は仙石秀久と十河存保に、伊予は小早川隆景にそれぞれ割譲された)。1597(慶長2)年に長宗我部元親百箇条を制定。文禄及び慶長の役に出兵し、帰国後、没。 |
| 本阿彌光悦 ほんあみこうえつ 1558(永禄元) - 1637(寛永14) | |
| 刀剣の鑑定。秀吉の右筆となった建部伝内による青蓮院流を基礎として、小野道風『古今集』や王義之の筆法を加えた独特の書風で寛永の三筆のひとりに数えられる。また楽焼や、狩野派と土佐派を交えてさらにそれを図案化した画風や斬新な手法による蒔絵も得意とした。代表作に船橋蒔絵硯箱など。 |
| 山上宗二 やまのうえのそうじ 1544(天文13) - 1590(天正18) | |
| 当代堺衆茶湯八人のひとり。利休の高弟。信長、秀吉に仕え、追放と赦免を繰り返し、1588(天正16)年には北条氏を頼って小田原城下に茶湯を広める。二年後に秀吉に謝罪する(伝)が、毒舌を吐いたために耳と鼻をそがれて惨殺される。「山上宗二記」を編述。子の道七も「父の伝をうけ、短気の口わる物」と記されている。 |
| 深芳野 みよしの ? - ? | |
| 道三が主君・土岐頼芸の愛妾だった深芳野をもらったとも、奪い取ったともいう。深芳野は道三との間に義竜を産むが、頼芸の子とする説もある。 |
| 亀姫 かめひめ 1560(永禄3) - 1625(寛永2) | |
| 徳川家康の長女。母は家康の正妻・築山御前。2代将軍秀忠は亀姫の弟にあたる。 1575年(天正4)奥平信昌の妻となり、4男と1女(千姫)をなす。 孫の忠昌が徳川家重臣本多正純によって格下げされた遺恨により、正純の「秀忠暗殺計画」をリークして本多家を改易に導いた「宇都宮釣天井事件」の仕掛け人である。しかし改易の原因は、正純の専横、秀忠との政策上の対立とされ、暗殺計画は事実無根と言われる。 |
| 山本勘助 やまもとかんすけ ? - ? | |
| 独眼で片足。武田信玄の参謀。川中島の戦いで戦死 |
| 山中鹿之介 やまなかしかのすけ ? - 1578 | |
| 尼子十勇士のひとり。1566(永禄9)年、尼子義久が毛利氏に下ったが、勝久を擁して戦い続け、捕らえられて斬首される。 |
| 島井宗室 しまいそうしつ 1539(天文8) - 1615(元和元) | |
| 博多で酒屋を営み、大陸貿易にも活躍。九州の諸大名に融資して巨富を得る。神谷宗湛と共に本能寺の変に遭遇。秀吉の内命を受けて朝鮮半島の地理・国情を調査し、小西行長らと組んで進出を阻止しようとしたが、実際には神谷宗湛と共に出兵のために兵糧米の蓄積にあたる。茶の湯を通じて家康及び石田三成にも信任を得る。楢柴肩衝を秘蔵していたが、筑前城主秋月種実に没収され、晩年は福岡の御用商人として終わる。 |
| 前田玄以 まえだげんい 1539(天文8) - 1602(慶長7) | |
| 半夢斎と号して比叡山に入ったが、後に信長、秀吉と相次いで仕える(秀吉五奉行のひとり)。本能寺の変では秀信を守って清洲城に逃れた(伝)。京都奉行・寺社奉行を務め、1588(天正16)年には聚楽第行幸の諸式を司った。関ヶ原の戦いでは最後まで中立的態度を取り続ける。*研究の遅れている人物。 |
| 吉乃 きつの 1527(大永7) - 1566(永禄9) | |
| 尾張国丹羽郡に大きな屋敷を構える生駒家宗の娘。土田弥平次に嫁ぐが夫の死後、生駒屋敷に戻り、そこで信長と出会い側室となる。信忠、信雄、徳姫を産む。 |
| 佐久間信盛 さくまのぶもり 1527(大永7) - 1581(天正9) | |
| 尾張時代から信長に仕えた有力家臣。桶狭間の合戦で功をあげる。信長の上洛に従い各地を転戦するが、三方ケ原の合戦で惨敗を喫す。また信長に対立する石山本願寺制圧の主将を命じられながら5年間まったく戦果をあげられず、ついに信長から譴責状を突きつけられ追放された。 |
| 森可成 もりよしなり 1523(大永3) - 1570(元亀元) | |
| 美濃出身。弘治年間頃から信長の家臣として各地を転戦。1568年(永禄11)の信長の上洛軍にも加わり、翌年まで京都の行政を担当した。70年(元亀元)、姉川の合戦に続く浅井・朝倉氏との戦いで討ち死にした。 |
| 俵屋宋達 たわらやそうたつ ? - 1643(寛永20) | |
| 俵屋と称される京都の一族と伝えられ、1630年前後に木阿彌光悦や烏丸光弘らと親交があったという以外、経歴は不明。大和絵の様式を江戸時代に新趣向を用いて装飾的に復活させ、華麗で構図の確かな上層町人の芸術とした。源氏物語図屏風、風神雷神図など。 |
| 日奥上人 にちおうしょうにん 1565(永禄8) - 1630(寛永7) | |
| 不受不施を理由に秀吉が行った千僧供養会を拒否。続いて家康には日紹らと対論させられ、公命違反として対馬に流された。後に恩赦を受ける。 |
| 最上義光 もがみよしあき 1546(天文15) - 1611(慶長16) | |
| 父・義守と対立し、苦境を強いられるが、それでも一時、庄内を制圧する。が、上杉景勝に敗北を喫し、家康に会津攻めの先鋒を命じられた時も上杉勢に苦しめられる。関が原の戦いで家康が勝利したのを気にようやく庄内を奪回する。妹義姫は伊達輝宗の室となる。遺族のほとんどが怪死を遂げている。 |
| 狩野元信 かのうもとのぶ 1476(文明8) - 1559(永禄2) | |
| 父・正信を継いで足利幕府の御用絵師となる。父・正信の画風を受け継いで、濃彩の技法を加えて狩野派の基礎を確立。竹林七賢図屏風、神馬図扁額などが有名。 |
| 蜂須賀家政 はちすかいえまさ 1558(永禄元) - 1638(寛永15) | |
| 父と共に信長に仕え、羽柴秀吉に属した。山崎合戦、根来一揆征伐などで功をあげ、四国征伐後に阿波を与えられて徳島城主となる。 |
| 佐竹義宣 さたけよしのぶ 1569(永禄12) - 1633(寛永10) | |
| 父義重は北条・伊達氏に拮抗し鬼将と称された武将。小田原征伐のおりに秀吉のもとに伺候、以降、豊臣政権下の大名となり水戸に府城を置いた。しかし関ヶ原の戦いに動かず、観望反覆の罪に問われ1602年(慶長7)、出羽秋田へ左遷された。 |
宇喜多秀家 うきたひでいえ 1572(元亀3) - 1655(明暦元) | |
| 父直家が没すると秀吉の養子となり、秀吉の一字を与えられて秀家と名のった。四国、九州の陣に従軍して功をあげ、文禄の役、慶長の役でも活躍。秀吉の五大老。関ヶ原の戦いでは西軍の謀主に擁され、敗戦後、八丈島に流され、在島50年の1655年(明暦元)、島で没した。 |
| 吉川元春 きっかわもとはる 1530(享禄3) - 1586(天正14) | |
| 武将。毛利元就の二子。弟の小早川隆景とともに、父・元就と甥にあたる輝元に従い各地を転戦、中国制覇を助けた。秀吉が天下を掌握すると、その下につくのを拒み、家督を長男元長に譲って隠居した。1586年(天正14)の九州の陣に従軍し、陣中に没す。 |
| 京極高知 きょうごくたかとも 1572(元亀3) - 1622(元和8) | |
| 豊臣秀吉に仕える。1593年(文禄2)外舅毛利秀頼の跡を継ぎ、信濃飯田城主となる。関ヶ原の戦いには東軍に属し、岐阜城攻めに活躍。戦後、丹後国宮津城主となる。大坂冬夏の両陣にも参陣し軍功をあげた。キリシタン大名で洗礼名ジョアン。 |
| 島勝猛 しまかつたけ ? - 1600(慶長5) | |
| 名は清興(きよおき)とも、勝猛(かつたけ)、友之とも伝わる。大和の筒井家に仕えた後、豊臣秀長に仕える。その後、人物を見込まれ高禄で石田三成に招かれた。関ヶ原の戦いでは石田軍の前衛をつとめるが、銃弾を受けて討死。 |
| 脇坂安治 わきさかやすはる 1554(天文23) - 1626(寛永3) | |
| 明智光秀に属し、初陣の丹後黒井城攻めで勲功をたて、敵将赤井悪右衛門から貂の皮の旗指物を贈られた。以降、行列の槍の先には必ず貂の皮をつけた。賎ケ岳の合戦では七本槍の一人に加わる。関ヶ原の戦いには途中から徳川方に寝返り、戦後大洲城主となる。 |
| 小早川隆景 こばやかわただかげ 1533(天文2) - 1597(慶長2) | |
| 毛利元就の三子。兄の吉川元春と共に甥にあたる毛利輝元の中国制覇を助ける。1585(天正13)年に秀吉の四国攻略に従軍し、文禄の役には一万人の兵を率いて、碧蹄館の戦いで明将・李如松を立花宗茂と共に破った。小早川秀秋を養子にする。 |
| 毛利輝元 もうりてるもと 1553(天文22) - 1625(寛永2) | |
| 毛利元就の長子・隆元の子。父の急死により11歳で家を継ぎ、祖父元就、叔父吉川元春、小早川隆景の後見をうけた。1577年(天正5)以来、中国制圧をはかる信長の命をうけた秀吉と各地で戦うが、82年(天正10)停戦。84年(天正12)頃から秀吉に服属し、97年(慶長2)頃、五大老の一 人となる。関ヶ原の戦いでは恵瓊に説かれて西軍の盟主となるが、敗戦により防長二国29万余石に減封された。 |
| 直江兼続 なおえかねつぐ 1560(永禄3) - 1619(元和5) | |
| 幼時より上杉謙信に仕え、美貌をもって寵愛されたという。1582年(天正10)、直江実綱(さねつな)の家を継ぎ、景勝の側近となる。関ヶ原の戦いの敗戦後は主家の安泰に奔走した。 |
| 本多正信 ほんだまさのぶ 1538(天文7) - 1618(元和4) | |
| 乱世には軍事参謀として、治世には国政を掌った。著書に『本佐録』(伝)。 |
| 津軽為信 つがるためのぶ ? - ? | |
| 陸奥津軽城主。石川城を攻略後、南部信直との対立が激化し、最上義光の支援を受けて浪岡城を攻略。 |
| 鍋島直茂 なべしまなおしげ ? - ? | |
| 龍造寺隆信の家臣。肥前遠征を企てていた大友宗麟に夜襲攻撃をかけて戦局を覆す。隆信没後に国事を代行。 |
| 策彦周良 さくげんしゅうりょう 1501(文亀元) - 1579(天正七) | |
| 臨済宗天龍寺派の禅僧。鹿苑寺心翁等安に入門。五山文学末期の学僧として、その名は明にも知られた。遣明副使・正使として二度、明に渡り、『初渡集』『再渡集』を残す。ほかに『南游集』『謙斎詩稿(集)』。信長や武田信玄らに崇敬された。 |