関ヶ原日記

10月12日
九鬼嘉隆は西軍の敗北が決定的になると鳥羽城を棄て、和具(志摩郡答志島)に潜んでいましたが、この日、子・守隆に遺書を残して、自刃しました。(8月29日・9月10日参照)
九鬼守隆(志摩鳥羽城主)は徳川家康にみずからの戦功にかえ嘉隆の助命嘆願し、その赦しをえていたのですが、その報は嘉隆のもとに届かなかったのです。
関ヶ原本戦で傍観していた長宗我部盛親(土佐浦戸城主)は井伊直政(家康家臣)を頼り、大坂で家康に謝罪しました。しかし、死は免れたものの、所領は没収されてしまいます。その後、盛親は京都で寺小屋の師匠をして生活していましたが、大坂の陣で豊臣秀頼に招かれ入城、豊臣家と命運をともにすることになります。

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