小早川秀秋
こばやかわ ひであき
1582年(天正10)―1602年(慶長7)
戦国大名
当初西軍に付くも関ヶ原の戦で寝返り、東軍勝利を決定づけた青年武将
豊臣秀吉の正妻「ねね」の甥。秀吉の養子となり、十歳で丹波(たんば)の国亀山城10万石を与えられる。
秀吉に実子・秀頼が生まれると小早川隆景の養子に出され、隆景の隠居後、筑前(えちぜん)の国名島城(なじまじょう)の城主になる。
慶長の役(けいちょうのえき。豊臣秀吉による朝鮮出兵)では釜山(プサン)方面の大将を務めるが、戦後、釜山を離れて蔚山城(ウルサンじょう)の救援にむかった軽挙を石田三成らに咎められ、所領を大幅に減らされ、一時的に越前に遷せられた。しかし秀吉没後、徳川家康によって旧領へ復帰した。こうした経緯から、(豊臣のライヴァルである)家康との関係が深まった。
関が原の戦(1600年)では当初、西軍(石田三成方)に属して松尾山に陣を敷いたが、合戦の途中で寝返り、東軍(徳川家康方)に勝利をもたらした。その功により備前・美作(みまさか)55万石に任じられ、岡山城主となる。
しかし、世間から裏切り者の烙印を押された秀秋は、次第に周囲の意見も聞かず政道に乱れを生じていった。そして1602年、21歳の若さで病死した。一説では狂死とも言われる。
# 次のページ
* 前のページ
人物インデックス
HOME