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関ヶ原日記
12月26日
京都で大雪がふりました。
細川忠興は初旬に旧領・丹波を発足。この日、豊前・中津城に入城しました。
12月29日
京都で大雪がふりました。
×月×日
天下分け目の関ヶ原合戦は単に9月15日関ヶ原でおこなわれた数時間の激闘がすべてではありません。空間的にも日本国中の大名が東西両陣営に分かれ争い戦火は全国に広がりました。時系列で語るならば、少なくとも、1598年の秀吉の死去、秀吉死後のイニシアティヴをめぐる家康プラス浅野長政vs4大老プラス4奉行の軋轢、1599年の前田利家の死去という大きな流れをおさえておく必要がありますし、戦後体制が最終的に定まるのは島津氏の処遇が決定した1602年まではみておかなければなりません。
歴史の常として、勝者は膨大な記録を残すことができますが、敗者は良質な史料をあまり残せません。徳川家康が関ヶ原合戦前後に発給した大量の文書群が知られているのに対し、西軍の主要武将、とくに石田三成や宇喜多秀家に関しては、実際どのような役割を果たしたのかよくわからないのです。『関ヶ原始末記』や『関ヶ原軍記大成』など江戸時代の歴史小説は石田三成の動向を大きくあつかっていますが、それがどの程度史実を伝えているかは疑問です。限られた史料の中で、『関ヶ原日記』では石田三成vs徳川家康という構図をなるべくとらないよう試みました。だいいち、関ヶ原本戦で、石田三成本陣の笹尾山は西軍の最北端にすぎません。それだけでも、三成の位置がどのようなものだったのかわかろうというものです。
三成の役どころについては、外国人たちのほうがむしろ冷静に正直に眺めていたようです。イエズス会の宣教師は『1600年度年報補遺』の中で、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が大坂・京で引き回されるありさまを、「先頭には治部少輔が、あたかも同盟軍の首謀者かつ頭首として配置されていた」と記し、朝鮮側に残る記録でも、当初こそ三成を首謀者として描いていますが、1607年江戸を訪れた使節の記録は、はっきり毛利輝元を首謀者として記述し、三成は配下の一武将として登場するにすぎません。当時の外国人からみても明らかなフレームアップを今日まで信奉し続ける必要はさらさらないのです。
10月1日、石田三成は首謀者として処刑されてしまいますが、小西行長とともに、毛利輝元から全幅の信頼を寄せられていた安国寺恵瓊も処刑されています。9月15日の関ヶ原本戦で実際の戦闘に加わらなかった大名たちがせいぜい所領没収ですまされたことを考えると、高齢の僧籍大名をわざわざ処刑することで、毛利家が深くかかわっていたことを葬り去らねばならなかった事情がみてとれるでしょう。
というものの、筆者も途中からいくぶん信憑性にかける史料も使ってしまいましたし、四国の戦況について全く触れることができませんでした。脱稿後、どうも再考しないといけない日付に気づきましたし、文章スタイルも前後でずいぶん変化してしまいました。いつか機会がありましたら、全面的にリライトしたいと考えています。最後に一年間にわたって『関ヶ原日記』をご愛読いただきましたみなさまに感謝し、ご迷惑をかけた関係者のみなさまにお詫びを申しあげながら、このファイルをセーブすることにします。
了
日本にもたらされた食文化
前回は音楽についての話題でしたが、今回は食に関するお話です。16世紀半ばにもたらされた南蛮文化のなかでも、食に関するものは多いのですが、ちょっと信じられないのが、日本でつくられたパンが、なんと世界一とのお墨付きをもらったことでしょう。スペインのドン・ロドリーゴ・デ・ヴィヴェールという人(何者かは不明)が、
江戸でパンを食べ、世界一の美味であると激賞した記録があるのです。いま、日本の至る所でおいしい焼きたてのパンを食べることができますが、その伝統(?)はこのときから始まったようです。
そのほか、西洋菓子としてとくにカステラが有名ですが、現在のポルトガル語では「パン=デ=ロ」というのに対し、昔は「クララ=エン=カステロ」と称したそうで、これが転じてカステラになったと考えられています。また、コンペイ糖、天ぷらなどがポルトガル語であることはよく知られていますが、おでんのタネにもなる「ヒリョーズ」(小ぶりの「がんもどき」を関西では今でもこう呼んでいます)、ビスコイトから転化したビスケットなどもポルトガル語、というのはちょっと意外な感じがしないでもありません。
日本にもたらされた西洋音楽
16世紀半ばより以降、イエズス会宣教師たちや、天正遣欧使節一行によって西洋の音楽や楽器が日本にもたらされましたが、一体それはどのようなものであったのでしょうか。
具体的に挙げると、クラボ、アルバ、リュート、ラベイカという名前の楽器が分かっていますが、これは順にチェンバロ(フランスではクラブサン)、ハープ、マンドリンの古い形、バイオリンの前身、ということになります。このほかに、ビオラ=ダルコという弦楽器、フラウタと呼ばれたフルート、そしてこれはおなじみのオルガンなどもありました。また、日本人のあいだにもこうした楽器を巧みに演奏をする人びとが次第にあらわれてきますが、キリスト教が弾圧されると公然とは演奏できなくなり、残念ながら明治維新に改めて西洋音楽が移入されるまで、途絶えてしまいました。しかし、キリシタン版と呼ばれる日本で印刷物された書物のなかに『サカラメンタ提要』という本があり、そのなかに当時教会で歌われていたグレゴリオ聖歌の楽譜が残っていたのです。もちろん、これをそのまま演奏すれば当時の音楽が分かり、たいへん貴重な資料となっています。
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