関ヶ原日記

12月23日
黒田長政(筑前名島城主)は島津義弘(薩摩で蟄居中)に書状を送り、井伊直政(徳川家康家臣)を仲介にして家康に謝罪するようすすめました。
島津家の戦後処理はまだしばらくかかります。島津義久(義弘の兄)・忠恒(義弘の子)は井伊直政等を頼って、家康に謝罪しますが、義弘が勝手に西軍に与したのであって、島津家としては中立だったというスタンスを崩しませんでした。1601年8月に本多正信(家康家臣)から義久と忠恒にあてて、身命と所領安堵を保証する起請文が送られました。家康家臣の起請文が反故になったのは毛利家の例もありますし、かといって無視することもできず、義久は従兄弟の忠長を上洛させました。1602年、4月、今度は徳川家康から義久と忠恒に所領安堵の書状がだされます。それをうけて、12月に忠恒が上洛、伏見城で家康に拝謁し、正式に手打ちとなりました。なお、1606年には忠恒は家康の家の字をもらい、家久と改名しています。

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