関ヶ原日記
11月2日
毛利宗瑞(輝元の入道名)は、吉川広家に周防玖珂郡3万国(山口県岩国市周辺)を与えました。(10月10日参照)
関ヶ原本戦での広家の傍観が西軍敗退につながり、広家が井伊直政(徳川家康家臣)らととりかわした密約も反故にされ(9月14日参照)、毛利家は大幅な領地削減を余儀なくされました。一方、毛利家の領地は、徳川家康構想では広家に与えられるはずのものだったのも事実です。(10月3・10日参照)毛利家内での広家の立場はかなり微妙なものだったでしょう。
翌年、広家は「関ヶ原始末書」を宗瑞に提出しました。その中で自らの行動を、1582年6月、備中高松で豊臣秀吉と和睦し、織田信長の死を知ったあとも動かなかった毛利家家臣の小早川隆景・吉川元春と同質で毛利家のためと釈明しています。
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