「本能寺の変」の謎
 明智光秀はなぜ唐突に主君打倒に立ち上がったのか。単独犯か複数犯か、さらに黒幕が存在する実行犯か、その動機・原因に対して様々な説があり、じつに50余を数えるという。しかし、当時の光秀や本能寺の変に関する記録は少なく、後に書かれたものであればあるほど、伝説的なエピソードが付け加えられ、信憑性が疑われる。いずれにせよ、織田信長のエキセントリックとも思われる行動や性格などが遠因となって、多くの仮説が生またようだ。
 もっともポピュラーな説は、怨恨説である。江戸時代に書かれた『明智軍記』や『常山紀談』などには、これに類するエピソードがいくつも紹介されている。たとえば、信長が、八上(やかみ)城の波多野兄弟を投降させた際に、約束を破って兄弟を殺害したため、人質となっていた光秀の母(伯母説もある)が磔にされてしまったこと、また家康の接待役を命じられた光秀が、用意した魚が傷んでいるとの理由で、信長に罵倒されて任を解かれたこと、等々である。
 一方で、戦国時代の武将であれば誰でも目指す、「天下獲り」を意図した野望説もある。しかし、保守的な官僚タイプで茶の湯や連歌などを愛した知的な光秀が、野心のために単独で謀反を起こしたとするのは、いささか無謀な感じがする。出兵の二日前、光秀は連歌師・里村紹巴を相手に、「時は今 雨が下しる五月かな」という句を読んでいる。これは「時」、すなわち土岐家の傍流である光秀が、「雨が下知る」=「天下を治める」ことを吐露したもの、という解釈が根拠となっている。
 さらに黒幕・陰謀説として、朝廷や家康、堺の商人、一向宗など、信長が冷遇したり弾圧した人たちが黒幕、あるいは共謀しての作戦だというものである。
 事ほど左様に、光秀の行動が理解や想像を超えた不可解なものに映るのである。


人物詳細
明智光秀 



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