信長と仏教
比叡山焼き討ち、高野山攻め、一向一揆に代表される一向宗本願寺派との対決など、信長は巨大化して民衆の心をつかむ仏教勢力に徹底して対抗した。そしてあらゆる宗教的権威を否定し、宗教を政治のもとに従属させようとした。信長はその合理的思考から来世を信じず、迷信などを嫌った。しかし自らも寺を建立しているように、仏教そのものを否定していたわけではない。対戦して勝利した寺院・宗派へも、決して宗教活動そのものや教理を廃し、禁止させてはいない。また新来のキリスト教を保護し布教を認めたのも、貿易との関係のほかに他宗教との勢力均衡を期待したところもあろう。
一向宗と並び、京都を中心とする武装集団であった日蓮宗は上層町衆を信徒に持ち、その経済力を背景に、京都最大の仏教勢力であった比叡山や一向宗と激しく対立していた。信長はこの法華宗の僧・朝山日乗を利用し、朝廷との仲介や、のちには対毛利交渉も行なわせた。1569年(永禄12)には京都に滞在中、宣教師のフロイス、ロレンソとこの朝山日乗に、信長の面前で宗論を戦わせた。ここではフロイスらが勝利したが、その後も日乗はキリスト教排斥を訴えて運動を続け、宣教師たちを攻撃した。しかし信長は、日乗が役に立つ人物であったので彼を利用しつづけた。
そして日乗没後、法華宗の勢力をそぐ機会を窺っていた信長は、安土城下での浄土宗の僧・普伝と法華信徒の論争騒ぎを理由に、79年両者を代表する高僧らに論戦を行なわせた。これが後に言う「安土宗論」であるが、信長の介入によって法華宗の負けとなり、普伝は斬られ、対論出席者は満座の中で袈裟を剥ぎ取られたうえ暴行を受けた。
この宗論の後、信長は京都の法華宗本山13ヵ寺から莫大な償金をまきあげ、さらに詫証文をとって浄土宗本山・知恩院に与えた。こうして信長は巧みに仏教勢力を牽制し、宗教権力に対する自らの絶対的な優越を知らしめ、都市政策を推進する契機とした。


人物詳細
織田信長 

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