不吉な刀として嫌われた名刀「村正」
家康には11人の男子があった。なかでも嫡男の信康は剛勇で聞こえ、家康の自慢であった。信康は家康が今川義元の人質だった時に、義元の遠縁にあたる築山殿を娶って生まれた子である。
1579(天文7)年、築山殿が武田勝頼と内通しているのではないかと、信康の妻徳姫(織田信長の娘)から知らされた信長の命で、築山殿と信康は殺された。家康は、このことを生涯悔やんでいたといわれる。
信康の切腹の時、介錯に使われたのが「村正」の脇差しであった。英傑で知られた家康の祖父・松平清康が刺殺された刀も、父・広忠が暗殺された刀も「村正」であったため、本来名刀として有名な「村正」も、徳川家にあっては災いをなす不吉な刀として嫌われた。
徳川家と「村正」の因縁は深く、家康を苦しめた真田幸村が使っていた刀も「村正」。さらに三代軍家光の弟・駿河大納言忠長が切腹した際の刀も「村正」だったといわれる。


人物詳細
徳川家康 

関連コラム
三方ケ原の戦い  小牧・長久手の戦い  四海を圧した江戸城  強固な結束を誇った三河武士 



ウィンドウを閉じる