おおうちよしたか せいぼつねん
1507年〈永正4〉−51年〈天文20〉かたがき
戦国武将

キャッチフレーズ
西の京・山口の繁栄を築いた文人大名
戦国時代の武将。義興の長男で、1528年(享禄元)家督を継ぎ、周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸の守護を歴任した。 初政は領国経営に専念し、34年少弐冬尚を下して筑前・肥前を平定、翌年には大友義鑑(よしあき)と和すなど北九州の支配を安定させた。また40年、尼子晴久が安芸に侵入すると毛利元就を助けて撃退し、翌々年には逆にみずから大軍を率いて出雲へ出兵、晴久の富田城を攻めたが敗れ、子の晴持を失った。
 もともと軍事を好まない義隆は、明・朝鮮との貿易による巨万の富をバックに、文化的事業に力を入れた。当時最も繁栄した都市であった城下・山口に、治安の乱れた京都から多くの公家を招き、芸能・学問にふけった。50年にはザビエルも訪れ、キリスト教の布教を許されている。以後、山口は布教の拠点となり、日本初の教会が建設された。
 しかし文化的繁栄を見る一方で、領国経営・家臣団統制の不安定をまねき、51年重臣陶晴賢(すえはるかた)の反乱により長門に逃亡、大寧寺で自刃した。45歳であった。   


関連人物
毛利元就 



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