
うえすぎけんしん 
1530年〈享禄3〉−78年〈天正6〉 
戦国武将
天性の軍略を用い、生涯を戦に捧げた「越後の龍」
越後の戦国大名。名は長尾平三景虎、上杉氏を継ぎ政虎と称し、のち輝虎と改称、入道して謙信と号した。父は越後守護代・長尾為景。為景の死後(1542頃)、兄・晴景が家督を継いだが、48年兄に代わって家督を継ぎ、春日山城主となる。
当初、一族の長尾政景と抗争したが和睦し、51年越後を統一する。52年朝廷から守護に相当する弾正少弼に任じられ、翌年春上洛。以後、信濃や関東に出征する。53年、武田信玄に追われた北信濃の村上、高梨氏らから救援要請をうけ、信濃・川中島に出兵。武田信玄との対陣は以後5回におよぶ。また52年、後北条氏(北条早雲以下5代を指す。鎌倉時代の北条氏と異なる)圧迫によって関東管領・上杉憲政が越後に逃れて来ると、その後61年長駆小田原に北条氏康を攻囲した。途中、鎌倉で憲政から正式に関東管領職と上杉姓を譲られた。これ以降、毎年のように関東に出て後北条、武田両氏とせめぎあいを続けるが、積極策の展開を打てずに両勢力の拡大を許した。
70年、信玄に対抗して氏康と越相同盟を結んだが、氏康の死により2年後に破れてしまう。この時期から越中への出陣が多くなり、信玄と結ぶ一向一揆と戦うが、73年(天正元)信玄の死により戦局が好転、越中から能登に進んで七尾城を落とした。しかし北陸で新たに織田信長との軋轢が生じるようになるが、77年には織田軍を加賀で打ち破った。この後、数年ぶりの関東出陣を目前にした78年、春日山城内で急死、四十九歳の生涯を閉じた。越後国内は養子・景勝、景虎の2人の間に跡目争いの戦乱がくりひろげられ、謙信の領国は一時的に崩壊することになる。
謙信は禅を修め、真言宗にも帰依し、とくに戦いの神「毘沙門天」への信仰が厚かった。名分を重んじ、潔癖で律儀な性格で、一生妻帯せず実子がなかった。酒と合戦をこよなく愛したが、反面能筆で和歌を好む繊細な文化人でもあった。
関連人物
織田信長
武田信玄
関連図版
甲冑
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