あけちみつひで せいぼつねん
1528年〈享禄元?〉−1582〈天正10〉 かたがき
戦国武将

キャッチフレーズ
本能寺で信長を討ち天下盗りを狙うが、わずか11日で夢と散る
 美濃源氏の土岐明智氏の庶流で、美濃可児郡明智城を本拠としていた土岐明智氏の出身とされているが、確証はなく、その前半生は謎に包まれている。明智城を斎藤氏に落とされた後、砲術や兵法、築城、政治などを学び、越前の朝倉義景に仕えた。  その後、義景を頼った足利義昭とともに織田信長のもとへ赴き、義昭に仕えた細川藤孝とともに入京の工作を行なって頭角を現わした。1568年(永禄11)、織田信長の上洛に際しても奔走し、これを助した。
 学問のほかにも連歌、和歌、茶の湯、書道など幅広い教養も身につけていた光秀は、信長に重用され、若狭、越前、近江、あるいは比叡山焼き討ちなどで功を挙げ、1571年(元亀2)、近江滋賀郡五万石を与えられ、坂本に居城を築く。さらに丹波の平定での功によって、1579年(天正7)には丹波一国二重九万石を受け、亀山城主を兼ねる。
 光秀は、ラジカルな独裁タイプの信長とは対照的な官僚タイプの知性派武将で、堺商人、とくに納屋衆らや茶人たちとも親交が深かった。
 1582年(天正10)6月2日、信長から備中高松の毛利攻めの援軍を命じられていた光秀は、老ノ坂で天下取りを表明、京都・本能寺の信長を急襲した。光秀の一万余の軍勢に信長は、寺に火を放ち自刃した。光秀はその足で二条城に向かい、信長の嫡男・信忠をも自刃に追い込んだ。
 光秀謀反を知った羽柴秀吉(豊臣秀吉)は交戦中の備中・毛利氏と急遽和睦し、光秀を討伐に向かい、京都山城の山崎街道で合戦となる(山崎の合戦)。羽柴勢に大敗した光秀は青海橋本城に敗走する途上、山科の小栗栖村の竹やぶで、農民の竹槍に刺されて深手を負い、重臣・溝尾勝兵衛に介錯を命じて自刃した。


関連人物
織田信長  豊臣秀吉 

関連コラム
「本能寺の変」の謎 



ウィンドウを閉じる