高山盆地には奈良時代から国府がおかれていましたが、1585年(天正13年)飛騨に入国した戦国武将・金森氏は高山城を築いて城下町を整備し、京風文化を移入しました。祭の起こりについてははっきりしませんが、この金森氏統治の時代に始まったとされています。
しかし祭が現在のような形になるのは、1692年(元禄5年)幕府直轄の天領になって、江戸文化が流入しはじめてからのことでした。1718年(享保3年)には山車、屋台、傘鉾が行列をつくって練り歩いたとの記録があります。これらの造り物は、江戸の赤坂山王祭などを模したものでした。 |
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やがて江戸型の単層形から、からくり人形をのせて重層化し、京都の祇園祭風の装飾を取り入れるなど、19世紀初めごろには高山独自の屋台の型が完成します。その後も改修や再建のたびに凝った造りや装飾など豪華さを競いあうようになりました。これも大名貸しするほどの経済力を持った、「旦那衆」と呼ばれる大商人が何人もいたからできたことですが、一方に古代から連綿と続く「飛騨の匠」と称された大工、塗師(ぬし)、彫り師といった技術者集団があったればこそ実現したものといえましょう。
それぞれの屋台は、度重なる火災や戦乱といった激動の歴史をくぐりぬけて今日に至っていますが、資力を注いで守ってきた町衆の誇りとして、また飛騨人(ひだびと)の心の拠り所として、後世に受け継がれて行くことでしょう。
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