[ウェブマガジン] WEB MAGAZINE vol.008




01 放浪の聖・円空
02 円空仏の魅力
03 岐阜県の円空仏
04 円空の足跡


円空仏の魅力

[ 円空仏の特徴 ]
ごつごつと荒々しいノミの彫り跡。口元にただよう柔らかな微笑、あるいは激しい忿怒の形相。円空仏ときくと誰もがこうした特徴を思い描くのではないでしょうか。 円空仏の多くは、鉈で丸太を斜めに四半分にたち割って、三角になった断面の鋭角の稜線を正中線として造像してあります。つまり像を輪切りにして上から見ると二等辺三角形になる。この独特の手法は、12万体の造像を成就するために、短時間で仏像を仕上げる最適の方法でした。また割れさけた木片、節くれだった材など、仏師たちがけっして使わなかったような木片を、円空は平気で使いました。なかでも木端仏(こっぱぶつ)と呼ばれる仏像は、捨て去られるべき残り材を使っています。 円空は木材そのもののなかに彫るべき形を見いだし、その木のもつ本性を生かして自在に奔放に造形したのです。



[ 遊びの好きな円空さま ]
村のお堂にはたくさんの円空仏が並び、円空さまと呼ばれていました。ところがこの円空さま、いつ勘定してみても数が合ったためしがありません。なぜなら仏さまは気ままな人で遊びに行かれる、というのです。また近くに住む子供たちは、円空仏をもって川へ行くと、くり返しくり返し上流から流して遊びました。それを見た年寄衆が、仏さまにそんなことをしてはいけないと叱り寺におさめました。けれどもその夜、年寄りの夢に仏さまが現れて、「せっかく子供と面白く遊んでいたのに、どうして止めるのか」。それからというもの、子供たちが円空さまにいたずらをしても誰も止めなくなりました。
これは飛騨地方に伝わる円空仏のお話です。こうした逸話は各地にあり、円空や円空仏がいかに親しまれ、庶民のあいだに受け入れらていたかを示しています。おそらく村の人々は、病の治癒や雨乞いなどの願い事をするために、円空さんを借りたり返したりしたのでしょう。
1663頃 内宮神
(美並村・熱田神社)
1663頃 内宮神
(美並村・熱田神社)
1663頃 内宮神
(美並村・熱田神社)
1663頃 内宮神
(美並村・熱田神社)
1663頃 内宮神
(美並村・熱田神社)
1663頃 内宮神
(美並村・熱田神社)


1663 天照皇大神
(美並村・神明神社)
[ 12万体にこめた円空の願い ]
円空の父はだれとも知られていません。貧しい母一人の手で育てられていましたが、その母は長良川の大洪水(1638)で命を落としました。円空5歳のときです。円空が12万体の仏像を刻もうと発願したのは、母の菩提を弔うためだといわれています。このことから円空仏の笑みのなかに、母の面影を見る人も多いようです。
ところで円空は、じっさいにはどのくらいの数の像を刻んだのでしょうか。上宝村の桂峯寺に祀られた今上皇帝像の背面には、「当国万仏、十マ仏作己(つくりおわんぬ)」と記されています。通説では、当国(飛騨国)で1万体の造像を終えるとともに、これまでに造った像が10万に達したと解釈されています。「十マ仏」の読み方には諸説あり、真偽は定かではありませんが、現在確認されている円空仏は5千体あまり。円空が1万体をはるかに超える仏像を造ったことは確かなようです。
円空と並び比較される木喰(もくじき・1718-1810)は、円空から150年後に活躍した造仏聖で、2千体を目標に造像し、北海道から四国、九州までを行脚しました。現存作は6百体弱。その作風はまったくちがっているものの、円空は、驚くべきスピードで気迫をこめて彫リ上げたことがうかがわれます。
1669 十二神将・酉
(名古屋市・鉈薬師堂)
十二神将・戌
(愛知県扶桑町・正覚寺)
1675頃 執金剛神
(名古屋市・荒子観音)
1679 不動明王
(美並村・熊野神社)
1691 青面金剛神
(下呂町)





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