放浪の聖・円空
[ 円空の生涯 ]
円空さんが仏像を刻んで祀ったために病気が治った、雷が落ちない、雨乞いに効き目がある、火事から守られた。飛騨・美濃地方にかずかずの伝説を残した円空は、寛永9年(1632)に美濃国(岐阜県)で生まれました。生誕地は羽島市内とも、郡上郡美並村ともいわれています。若くして出家し、23歳のときに諸国遊行の旅にでました。造仏聖として活躍をはじめるのは32歳の頃とされています。北は北海道から南は奈良県まで、各地を行脚して修業を重ね、困窮にあえぐ人々の救済を念じて多くの仏像を刻みました。生涯に12万体の造像を発願したといわれ、5千体あまりの円空仏が全国各地に現存しています。
円空は、元禄8年(1695)7月15日、関市弥勒寺近くの長良川河畔で入寂します。言い伝えでは、円空は長良川の岸辺に穴を掘らせ、節を抜いた竹を通風筒として立てると穴の中に入り、鉦をたたきながら念仏を唱え、断食して即身成仏をとげました。円空入定の地には山藤の蔓がからみついた巨木が鬱蒼と立ち、この蔓を切ると血が出ると伝えられています。
[ 円空の時代 ]
円空が生きていた時代は、いよいよ徳川体制が厳然たる構えをみせはじめる、という頃でした。幕府はキリシタン禁圧を目的に宗門人別帳という戸口調査をして、各人がどの宗門に属しているかを厳密に記帳しました。さらに僧侶の市井での法談を禁じる命令を出して、行動を大きく制限したのです。こうした状況下で諸国を遊行できたのは、円空が「聖」と呼ばれる下級宗教者だったためです。
「聖」は、寺ももたず学識もなく、一所不在の放浪をしながら庶民の要求にこたえる宗教者でした。泉鏡花の『高野聖』に描かれているように下賤のものとされ、ときには蔑まれ嫌われる存在でもあったのです。けれども民衆にとっては、わかりやすい因縁話で生きる道を教えてくれる「聖」こそが高僧でした。円空は仏像を彫ることで、一宿一飯の恵みを受けながら諸国を巡りました。
[ 円空の旅 ]
寛文5年(1665)、32歳の円空は東北を目指して旅立ちます。同年、弘前から北海道に渡り、およそ1年半のあいだ松前・蝦夷地を巡って布教をしました。円空が修業をしたといわれる太田権現、礼文華(れぶんげ)の洞窟は、わざわざ厳しい立地条件を求めたとしか思えないほど苛酷な場所、いずれも眼下に荒波が迫る切り立った岩場にあります。
北海道を出た円空は青森、秋田で造像した後、寛文8年(1668)尾張に到着。以後、岐阜・愛知・三重・奈良・滋賀など中部・近畿の各県をはじめ、茨城・群馬・栃木・埼玉など関東地方にも足をのばし、行く先々でさまざまな仏像を残しています。元禄3年(1690)には美濃・飛騨地方にもどり、晩年の円熟した技で彫像を刻みつづけました。円空は生涯を通じて旅をし、民衆とともに生きたのです。
ところで円空と同時代を生きた人物に松尾芭蕉(1644-94)がいます。もしかすると、旅の途上で2人は出会っていたかもしれませんね。
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