[ウェブマガジン] WEB MAGAZINE vol.003



第3回「美濃縞」


01 美濃と綿
02 美濃縞のおこり
03 もめん伝承
04 羽島市立中央公民館の美濃縞講座
05 美濃縞・尾張縞に出会うには


美濃縞のおこり

美濃・尾張地方では、「柿の花が咲いたら綿の種を蒔く」と伝えられ、5月半ばに種が蒔かれたといいます。綿織物は、明治の文明開花で紡績業が本格化するまでは、農業の副産として発展してきました。 美濃の木綿を代表するのが「美濃縞」。この「美濃縞」はいつごろ生まれたのでしょうか。主な木綿縞についてみてみましょう。
[桟留縞]
桃山時代から徳川の初期にかけてインドのサントメからオランダ船で輸入された当時最高級の綿織物で、後に唐桟(とうざん)と呼ばれました。江戸時代の中頃の明和年間(1764〜72年)に、京都西陣から唐桟に教わった桟留縞の技術が美濃に伝えられたといいます。高級品は細口の木綿糸で細かく織った、細密でカラフルな縞を特徴とします。
[菅大臣縞]
京都仏光寺通西洞院の紅梅殿城梅殿には菅原道真父子がまつられ、この付近は「カンダイジ」(菅大臣がなまったもの)とよばれる織物の本場でした。天明8年(1788)の大火災の際、職工の一派が美濃に移り、菅大臣縞が伝えられたといいます。
この2種の縞のうち、桟留縞は、約60年間、美濃の代表的な織物として諸国に流行したそうです。が、その後、さらに高度な技術を必要とする結城縞がそれにとってかわります。
[美濃結城]
本場栃木県の結城に対して名づけられた名称。文政ごろ(1818年)から織り出され、都市町人層をターゲットに売られたといいます。尾張の娘が上総国で製織法を習い織り始めたという説、関東結城の人が六十六部となって巡国の途中、技術を伝えたという説、現在の竹鼻町の織屋一柳惣兵衛が始めたという説など、その始まりには諸説があってはっきりしないようです。
美濃結城は、細口の木綿に絹糸をまぜて織る高級縞木綿で、それゆえ都市部に向けて出荷され、明治のはじめまでこの地方を代表する織物でした。『美濃織物史』によれば、明治3年(1870年)には、結城縞、桟留縞などの生産量は年60万反におよんだといいます。
明治時代には、綿織物のほか、縮緬、カピタンも生産され、スフ綿、カイキ織、膠布、武蔵織など多彩な種類の布地が生産されるようになりました。明治26年(1893年)ごろからは南清にも積極的に輸出され、昭和にかけて、この地の紡織業はさらに大きく発展します。しかし、機械化と化学染料による大量生産により、本来の美濃縞は、しだいに失われてしまいます。






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