あしかがよしてるせいぼつねん
1536年〈天文5〉−65年〈永禄8〉かたがき
室町幕府13代将軍

キャッチフレーズ
三好長慶との権力争いを繰り返して力尽きた「抜刀将軍」
室町幕府13代将軍。12代将軍義晴の子として京都で生まれる。1546年(天文15)12月細川氏綱の反乱により義晴が近江に亡命中、坂本で父に移譲されて将軍に就任した。初名義藤。
 49年以降、畿内に覇を唱えた三好長慶のためしばしば京都を追われたが、52年講和し入京した。しかし53年に再び長慶と対立、京都防衛の拠点である霊山城が陥落して義輝軍は大敗し、5年余も近江朽木谷に亡命を余儀なくされた。
 58年(永禄元)長慶と和睦して帰京したが、将軍の勢力範囲は京都周辺に限られ、丹波、摂津、大和、河内、和泉はすべて三好一族と松永久秀の所領と化した。しかし三好氏の傀儡に甘んじることを潔しとせず、しばしば三好・松永両氏に反抗の気配をみせたため、ついに65年5月、二条御所にて松永久秀らの急襲をうけ、暗殺された。
 このとき義輝は数本の刀の鞘を払って畳に突き刺し、刀をとりかえながら敵を斬り、後生「抜刀将軍」と呼ばれた。鉄砲技術の導入に意を用い、剣豪塚原卜伝から剣を学び、また暗殺団を組織して三好長慶の岳父を殺害するなど、将軍の権威回復に執念を燃やした武闘派義輝ふさわしい最後であった。     



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