おおともそうりんせいぼつねん
1530年〈享禄3〉-87年〈天正15〉かたがき
戦国武将

キャッチフレーズ
海外の動向に目を向けたキリシタン大名
戦国時代の武将、キリシタン大名。豊後の守護・大友義鑑(よしあき)の子。実名は義鎮(よししげ)で宗麟は法号。受洗名はフランシスコ。
1550年(天文19)政変で死亡した父の跡を継ぐと積極的な対外進出政策を推進し、54年肥後一国の平定に成功した。同時に周防の大内義隆滅亡後、弟・晴英を後継者に送っていたが、57年毛利氏の侵攻を受け、倒されてしまう。同年豊前、筑前、肥前を制圧し、幕府に盛んに働きかけて在来の豊後・肥後両国守護職のほか、肥前・豊前・筑前・筑後4カ国の守護職を得る。59年には九州一円を統括する九州探題の名称も得た。しばしば戦いを交えた毛利氏が北九州から撤兵してからは、九州一の大大名として権勢をふるった。
一方、海外にも関心を示し、51年ザビエルを招いたおりの会談を契機に、インド副王と通信を重ねたほか、明へもたびたび使者を送った。また、キリスト教の布教を保護し、府内沖ノ浜などを南蛮船の貿易港としてフィリピン等へ貿易船を派遣した。さらに、博多の一部を教会領に寄進した。晩年の78年には自ら受洗し、1582年(天正10)大村氏、有馬氏とともに天正少年使節団を派遣した。
75‐76年ごろ家督を嫡子義統(よしむね)にゆずったが、78年島津氏の日向進出に対抗した耳川の戦いで大敗し、第一線に復帰。しかし、劣性を挽回できず、衰退に向かった。86年島津氏の圧力にたえかね自ら上洛し、秀吉に支援を要請。翌年、秀吉の九州征伐直後に病没した。
支配者とキリスト教徒のふたつの立場で振幅のあった宗麟の評価は、毀誉褒貶の差が大きく、一定していない。



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