あさくらよしかげ せいぼつねん
1533年〈天文2〉−1573年〈天正元〉かたがき
戦国武将

キャッチフレーズ
優柔不断で最後まで決戦をしなかった「しずかなる国」の御曹司
越前の戦国大名・朝倉孝景の子。はじめ延影と名乗ったが、13代将軍足利義輝から一字を貰い、義景と改める。1548年(天文17)、父の死により家督を継ぐ。 当時の越前は加賀の一向一揆という火種はあるものの、一乗谷を中心に「しずかにておさまる国」といわれ、荒廃した京都から多くの公家が避難し、都風の文化の影響を受けた。 65年、将軍義輝が殺害されると、弟の義昭(はじめ義秋であったが、一乗谷で元服し、義昭を名乗る)とが援助を求めてきた。このとき義景は、この次期将軍候補を手中にしながら、躊躇して動かなかった。そのため上洛を急ぐ義昭は織田信長のもとへ去り、68年信長の武力を利用して上洛を果たし、15代将軍となった。 しかし有名無実の地位に不満を覚えた義昭は、諸国の大名に密命を下し、信長追討を企てた。義景は義昭との関係を信長に疑われ、再三にわたって上洛を要請されたが、織田の家臣に下ることを嫌って、これを拒否した。そこで70年信長は越前に侵攻、危機的な状況に陥るが、近江の浅井長政が反信長の兵を挙げ、助けられた。しかしここでも従兄弟の景健を派遣しただけで自ら動かず、そのあと姉川の戦で敗れてしまう。 その後浅井氏と協力して信長にあたるが、73年浅井の居城小谷城を包囲した信長軍と戦って敗れ、一乗谷に逃げ戻るが、従弟景鏡(かげあきら)の裏切りにあい自刃に追い込まれた。 連歌、和歌、絵画の才がある文人大名であった。

関連人物
織田信長  足利義昭  浅井長政 


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