
くろだじょすい 
1546年〈天文15〉−1604年〈慶長9〉 
戦国武将
時代の情勢判断に長けた軍略家
安土桃山時代の武将。実名は孝高(よしたか)、通称官兵衛で如水は法号。父は播州姫路城主・小寺職隆(こでらもとたか)。毛利の攻勢に対抗するため織田信長の陣営に加わり、中国攻めの総大将であった羽柴秀吉が播磨を攻略したときにこれを援助した。のち秀吉に仕え、竹中半兵衛とともに名参謀として名を挙げた。
信長に背いた荒木村重を単身説得に赴き抑留された話や、姫路城を秀吉に譲った話、また本能寺の変で途方にくれる秀吉に「天下を取る好機」と示唆した話など、逸話も多い。
80年、播磨に1万石を与えられ、国府山(こうやま)に移る。九州征伐後の87年には豊前6郡で12万石を領し、中津城主となる。89年、剃髪して家督を子・長政に譲ったが、秀吉に近侍して小田原征伐、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)などで活躍した。
秀吉没後は石田三成らと不和になり、関ヶ原の戦では徳川方について長政を出陣させ、自身は豊後で石田方に味方する大友吉統(よしむね)と戦いこれを捕虜とした。父子の戦功で、黒田家は筑前一国を領した。
熱心なキリスト教徒で、洗礼名をドン・シメオンと称し、そのキリシタン名を印文にした印判状を発給した。また千利休に茶の湯を学び、利休の茶の湯伝書のひとつ『黒田如水茶湯定書』を著している。59歳で病没、遺言により博多の教会堂に葬られた。
関連人物
豊臣秀吉
関連図版
肖像画
甲冑
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