
とよとみひでより 
1593年〈文禄2〉−1615年〈元和1〉 
戦国武将
豊臣存亡の危機に際し、老獪家康の軍門に降った若きプリンス
豊臣秀吉の次男。秀吉の側室淀君が生んだ次子であるが、長子の鶴松が夭折したため名実ともに秀吉の後継者となり、両親の愛を一身にうけて成長した。98年(慶長3)には従二位権中納言に昇進。
秀吉が死ぬ間際、徳川家康らの五大老、石田三成らの五奉行はじめ主要武将は秀頼への忠誠を誓約させられた。関ヶ原の戦の後、政権は徳川家康に奪われ、公儀権力に支えられた存在であったが、実質は摂津、河内、和泉の60万石を領有する一大名に転落する。
1603年家康の征夷大将軍就任のおりに内大臣となり、徳川秀忠の娘千姫と結婚。05年秀忠の将軍就任のおりに右大臣となる。14年、方広寺大仏殿の開眼供養における「鐘銘事件」(鐘に刻まれた「国家安康・君臣豊楽」の文字に、「家康を切って、豊臣の世を楽しむ」との意味が隠されていると難癖をつけた)で大坂冬の陣となったが、和議が結ばれた。しかし翌年5月の大坂夏の陣で大坂城落城、淀君とともに自刃、ここに豊臣氏は滅亡した。享年23歳であった。
関連人物
徳川家康
豊臣秀吉
淀君
ウィンドウを閉じる