信長の正月パレード |
相撲と弓取り式 |
勝利はほどほどに |
戦国時代の身分制度 |
戦国時代の食生活 |
縁起を担いだ戦国の武士 |
武士とお歯黒 |
秀吉の誕生日 |
鉄砲から大砲へ |
貧しかった戦国期の朝廷 |
鉄砲つくりの秘伝、解明される |
女性たちの戦い |
清正のトラ退治、本当は鉄砲だった!? |
出陣に当たってのセレモニー |
風流踊りもパラパラも、踊る楽しさはみな同じ |
資料の宝庫「言継卿記」 |
一揆と傘(からかさ)連判状 |
戦国武将のたしなみ |
戦国武将のたしなみ(承前) |
『おあむ物語』 |
『おきく物語』 |
花道の起源は? |
花道の発展 |
名門・島津家─薩摩隼人の伝統 |
戦国時代の幼名 〜これこそ親の愛のあかし…?〜 |
戦国武将と連歌の流行 〜信長や秀吉も愛した芸能〜 |
戦国時代の記録(3)『雑兵物語』 |
家臣団の構成 |
戦闘時の役割分担 |
戦国時代の貨幣 |
「南蛮」ということば 〜中華思想が起源?〜 |
日本に来たバテレンたち |
バテレン追放令にまつわる謎 |
フェリペ2世に「ノー」と言った秀吉 |
明治時代に「発見 !?」された天正遣欧使節 |
日本にもたらされた西洋音楽
信長の正月パレード
天正9年(1581年)正月、安土城下にはポンポンと弾ける爆竹の音が賑やかに鳴り響きました。織田信長が主催した「左義長」の祝いです。赤い衣装に身を包み、南蛮わたりの黒い笠をかぶった信長が、華やかに着飾った家臣一同を従えて町中を騎馬で練り歩いたといいます。こうしたパレードの慣習がなかった当時ですから、見物人はおおいに驚き、かつ喜んだことは想像にかたくありません。やがて評判は宮中にも伝わり、洛中にての再現を望む声が届くと、信長は早速明智光秀に命じて準備に掛かりました。馬場をはじめ、皇族が見物する桟敷席を設けるなど、きわめて大がかりなものでした。この日の豪華で壮観なパレードのありさま、信長の衣装の美しさなどについては、公家の日記や『信長公記』に活写されています。派手好きでスター的な気質に富んだ信長の、得意満面な表情が目に浮かぶようです。
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相撲と弓取り式
さて、正月と言えばもうすぐ大相撲の初場所が開かれますが、信長が好んだもののひとつに、相撲があります。取り組みの最後に行なわれる「弓取り式」は、そもそも元亀元年(1570)、安土の港町常楽寺の相撲会がきっかけで始まりました。近江の近郷近在から集まった力自慢のななから、優勝した宮居眼左衛門に、褒美として信長秘蔵の「重藤の弓」が与えられ、これが弓取りの始まりとなったのです。またこのとき、信長はふたりの力士を召し抱えましたが、以後、近世大名たちが抱え力士を持つようになった嚆矢でもあります。信長はこのほかにも、安土城や二条城でも頻繁に相撲会を催し、多くの観戦招待者を集め、その数も千人、多いときには千五百人を数えたと言います。
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勝利はほどほどに
戦国時代の武将にとっては、なにはともあれひとつずつ勝利を積み重ねて領国を拡張し、いつの日か天下を取ることを夢見ていましたが、武田信玄は「完全な勝利は危険」であると、ちょっと気になる発言をしています。
すなわち「およそ軍勝は五分を以て上となし、七分を中となし、十分を以て下となす。五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は奢りを生ず」と。これは、老子のことば「兵強ければ滅び、木強ければ折る」を連想させますが、別の言い方をすれば、がむしゃらに力で押すばかりでなく、ときには引くことも肝要であることを示唆していると言えましょう。
ついに天下を取る夢は叶わなかった信玄ですが、さすがに実力派武将、含蓄のある言葉ではありませんか。
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戦国時代の身分制度
私たちは、江戸時代の士農工商という身分制度の印象が強いため、戦国時代もほぼ似たようなものと考えがちですが、当時の身分制度はもっと流動的であったようです。
まず、武士と百姓の違いは紙一重で、半農半士の土豪の場合、軍役を努めれば武士で年貢を納めれば百姓として扱う、といった程度の違いでしかなかったようです。また、商人から武士になったり、僧侶から武士になったり、その逆も多かったわけです。
このように、身分に流動性があったことを知ると、当時の豪商のなかには、意外に武士からの転身組が多いことも、なんとなく納得がいきます。そしてそれが原因ではないのですが、戦国時代の豪商ともなると、武将とほとんど対等な立場であったらしく、秀吉が行なった茶会の席次なども、大名で言えばだいたい五万石から十万石のランクに位置したといいます。
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戦国時代の食生活
南北朝時代のころまで、日本人の食事は朝と夕方の二回というのが普通でした。このため食事のことを「朝夕(ちょうせき)」と呼んでいたくらいです。室町中期になると、昼食を加えた三度食が流行して、江戸時代になって次第に定着していきます。
また、主食として米を食べる機会が多くなりましたが、公家は蒸した「強飯(こわいい)」を、武家は現在と同じように炊いた「姫飯(ひめいい)」を好み、後者は庶民にも好まれるようになりました。 また、生物(なまもの)、煮物、焼物という和食の基本形ができ、同様に調味料の基本である味噌・醤油が登場してきたのもこの頃のことです。
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縁起を担いだ戦国の武士
現代スポーツを代表するプロ野球の選手・監督でも、シーズン中は何かと縁起をかつぐ人が多いと聞きますが、自国の運命や生命・財産がかかった戦いを目前にして、戦国の武士たちがいきおいナーヴァスになり、つい縁起のひとつやふたつ担ぎたくなるのは人情というもの。
指揮官の優劣、人数・物資の差違、武器や馬の良否といった側面ばかりでなく、やはりここ一番の踏ん張りどころではメンタリティやモチベーションの強弱が勝敗を分けるのです。
縁起といっても、「鳥が向こう、つまり敵方に飛んでいったから我が軍の勝利」、戦場で弓が折れたとき「握りより上は吉、下は凶」、また「甲冑を北向きに置くべからず」といった、たわいないものが多かったようです。しかし、縁起担ぎや迷信、
まじないの類であっても、将たるものはこれを利用し、全軍を一種の興奮状態、集団催眠状態へと導き、集中力を高めて敵に当たることもまた戦略と心得ていたのです。
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武士とお歯黒
江戸時代の既婚女性が、鉄漿(かね)付けと呼ばれる「お歯黒」を施していたことはよく知られていますが、じつは戦国時代の公家や、上流階級の武士もお歯黒をしていました。小田原の北条家、今川義元などの例は有名ですが、豊臣秀吉も小田原征伐のときにお歯黒を付けたといいます。これは、別段おしゃれにうつつを抜かしたというのではなく、合戦で討ち死にしても見苦しくないよう、つねに死に対しての心構えをしていたと見ることもできます。
慶長五年、大垣城落城の頃を記した『おあむ物語』には、討ち取った敵方の首にお歯黒をして上流武士に見せかけ、恩賞にあずかろうとした者がいたと書かれています。
武士のお歯黒は、元亀・永禄の頃には下火になりましたが、宮中や公家社会では徳川末期まで続きました。また女性の場合、地域によって異なりますが、明治末までこの風習が残っていたところもありました。
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秀吉の誕生日
戦国大名の生没年を調べると、ことに生まれた年は不明の点が多く、さらにいろいろな記述があってどれを取ってよいのか判断に迷うことがしばしばです。
豊臣秀吉を例に取ってみると、『朝日物語』には天文5年(1536)丙申(ひのえさる)6月15日とありますが、秀吉が自ら語ったものを祐筆の大村由己(ゆうこ)が書きとどめた『秀吉事記』では、天文6年丁酉(ひのととり)2月6日誕生とあります。
公卿の官歴を記した『公卿補任(ぶにん)』には、秀吉が天正11年に参議従四位下に任じられたとき48歳、また慶長3年薨去のときに63歳とあるので、逆算すると天文5年が誕生年ということになります。一年くらいどうでもいいではないか、という意見も出そうですが、史家にとってはなんともやっかいな問題なのです。
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鉄砲から大砲へ
長篠の合戦において織田信長の鉄砲隊が威力を発揮し、勇猛を誇った武田の騎馬軍団を打ち破ったことはあまりにも有名ですが、永禄の頃(1560年代頃)ともなると口径の大きな大鉄砲、さらに大筒・仏郎機(フランキ)といった大型の砲が盛んに使用されるようになりました。
とくに有名なのは、天正6年(1578)織田信長が九鬼嘉隆に命じて建造した世界初の大型鉄甲船に搭載された大砲でしょう。都合7艘の鉄甲船は、石山本願寺との相次ぐ戦いで勝機の掴めぬ織田軍の秘密兵器でしたが、搭載された大砲の威力にさしもの毛利水軍も木っ端みじんに粉砕され、まったく歯が立ちませんでした。
その後も豊臣秀吉の文禄・慶長の役、徳川家康の大坂の陣においても大砲が威力を発揮しました。また、こうした大型砲の登場につれて、城の土塁も次第に堅固な石垣に替わっていきました。
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貧しかった戦国期の朝廷
応仁の乱によって幕府や朝廷はますます衰退に向かう一方でしたが、とくに朝廷の財政難は深刻でした。そもそもいろいろな儀式に必要な費用は、すべて幕府が出資していたのですが、幕府自体の安定が悪く、天皇の即位式すら満足に行なえないありさまでした。
たとえば、後土御門天皇の場合、次の天皇の即位式を行なう余裕がないため36年間も在位し、しかも没後は葬儀費用がないために40数日間遺体が御所に安置されたままでした。
次の後柏原天皇は費用がないため即位式ができず、22年後に本願寺からの献金でようやく即位することができました。また、さらにその次の後奈良天皇の即位式も北条氏綱、今川義元、大内義隆ら戦国大名からの献金によって10年後に実現することができました。
このように朝廷の窮乏ははなはだしく、内裏の紫宸殿の塀が壊れたまま放置され、三条大橋のたもとから内侍所のあかりが見えたとも伝えられています。
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鉄砲つくりの秘伝、解明される
戦国時代、種子島に伝わった鉄砲は短期間のうちに徹底的に研究され、模造品が作られるようになりました。しかも当時の製鉄・加工技術を駆使して、ほどなく量産化に成功し、日本はあっという間に世界一の鉄砲保有国になりました。
当時の鉄砲は内部を掃除するため、銃底はネジで開閉できるようになっていましたが、生産上の最大のネックは、それまで日本にはなかったこの「ネジ」の製造にありました。試行錯誤の末開発された製法は極秘でしたが、時代とともに廃れてしまいました。秘伝中の秘、しかも口伝のため記録がなく、後世、その解明に多くの人が挑戦してきましたが、今日まで謎とされていました。
ところが最近、栃木県の個人研究家・伊藤博之さんがこの謎解きに成功したことが報じられました(2月14日付『朝日新聞』)。まず、長方形の紙を用意します。短辺はネジの長さ、長辺はネジの円周とネジ山の数の積。その紙を対角線で折り、二つに切ります。短辺を棒に巻きつけていくと、紙の線が螺旋状のネジの目になります。あとはその線に沿ってヤスリで削ると、できあがり。なにごともわかってしまえば簡単ですが、秘伝とされたため他に応用される機会もなく、産業の発展にとってはたいへん残念なことでした。
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女性たちの戦い
戦国時代の武家の女性は政略結婚の道具として扱われ、なかば人質のようなかたちで見も知らぬ相手のもとに嫁いでいかなくてはなりませんでした。女性に限らず、すべてが「お家のため」にあった時代、個人の意思が尊重されようはずもありません。しかも一夫多妻が常で何人もの側室と同居し、さまざまな確執に悩まされなくてはなりませんでした。また嫁入りした女性でも完全に婚家に包み込まれず、生家のものという意識が強く残っており、実家の都合に応じて何度も離別、再婚させられた悲劇の女性たちも少なくありません。
しかしこの時代の女性たちは、明日をも知れぬ戦乱の世に育っただけに、武芸をたしなむ女性も多く、甲冑を身にまとって城を守り、破れたさいには夫とともに切腹、といった武勇伝も多く伝えられています。また夫の死後、幼い後継ぎに代わって家中を統率し、外敵・内敵から家を守りとうした女性たちもいます。彼女らは、ただ人形のように生きていたわけではなく、その運命に忍従しながらも妻として、母として、精一杯の自己主張をおこなったのです。
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清正のトラ退治、本当は鉄砲だった!?
加藤清正は江戸時代、大衆の間で人気が高く、歌舞伎にもしばしば登場します。演目とはまったく関係ないのに、「さしたることはなけれども、現れ出でたる清正公」の台詞とともに突然登場し、
すっと舞台を横切って退場するだけで観客が大喜びしたくらいです。
朝鮮出兵における〈虎退治〉、慶長の大地震の時「いの一番」に伏見城にかけつけ、秀吉の勘気がとけたという〈地震加藤〉、二条城での家康と秀頼の会見をお膳立てした後、毒殺されたという〈毒酒の清正〉や〈毒饅頭の加藤〉といったエピソードがよく知られ、歌舞伎だけでなく講談や読み物の題材として取り上げられています。
なかでも一番有名なのが〈虎退治〉ですが、これは後世に脚色が加えられたものです。実際には鉄砲を使ったのですが、「賤ヶ岳の七本槍」の一人として名高い清正のこと、槍で退治したことにしたのでしょう。こうして勇猛なサムライの典型として、明治以降には国策に利用され、理想化された「清正像」が一人歩きするようになりました。
しかし私たちは、朝鮮半島ではその暴虐ぶりが今なお語り継がれている事実、また歴史教科書の記述問題でアジア諸国が日本の侵略戦争の責任問題に猛省をうながしている現状などをけっして忘れてはならないでしょう。
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出陣に当たってのセレモニー
戦国時代の武将たちには戦いに際して、儀式めいたさまざまな軍陣の作法があったようで、大将たるものそれらに精通し、まちがいなくとりおこなうためかなり神経を使ったようです。相模の玉縄城主・北条氏繁が息子の氏勝に書き与えた秘伝書には、出陣から合戦後の首実検にいたるまで、88カ条もの作法や心得が具体的につづられています。出陣の膳には「討つ、勝つ、喜ぶ」という意味をこめて「打ちアワビ、勝ち栗、昆布」をそなえることからはじまり、甲冑を身につける作法、城門からの出方、途中で女性と出会った時の対処、また武具や幟、書状などに関して災いを避けるしきたりなどが事細かに決められています。首実検に関する作法も厳しく、首の持ち方、洗い方、切り口のそろえ方、札のつけ方、並べる板の寸法、首を見るときの呪文、敵に首を返すときの入れ物と入れ方などが延々と記述されています。
もちろんこうした作法は北条氏だけに限ったものでなく、今川氏などにも同様のものが残っています。それらには、当時の一般的な作法では三切れ出される昆布を、出陣の膳では「敵をひと切れにする」ため、ひと切れにするといった具合に、独自の解釈を盛り込んで秘伝としたようです。
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風流踊りもパラパラも、踊る楽しさはみな同じ
応仁の乱が終息したころから、京の都では風流(ふりゅう)踊りが盛んとなり、民衆の乱舞が町のいたるところでくり広げられました。そもそもは、京都近郊の農村で行なわれていた盂蘭盆会の踊り「念仏拍子物」がしだいに市中に定着し、町の団結をうながす芸能として発達したといわれています。そのため「四条踊り」「室町衆風流」「上京衆風流」などと、当時は地名を冠していました。
大勢の人々が風流傘や灯籠を囲んで熱狂的に踊ることで町の団結をはかる、というのもなかなか興味深いものです。今日でも「よさこいソーラン節」のコンテストをめざして一致団結し、荒れていた高校生がすっかり様変わりした、という話題がニュースになったこともありました。踊りというものは、良い意味でも悪い意味でも、人を狂わせる要素をもっているのでしょうか。
狩野長信「花下遊楽図屏風」には、最新流行のファッションに身をつつんだ若い男女の、いかにも楽しそうな風流踊りが描かれています。
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資料の宝庫「言継卿記」
戦国時代に関する本を読んでいて気付くことは、しばしば引用される資料として公卿・山科言継(ときつぐ)が書きつづった『言継卿記』が目に付くことでしょう。この日録には、大永2年から天正4年(1527〜76)にわたる当時の政治・社会・文化について記されています。
彼の家は代々、朝廷や公家の衣服・装束をとりまとめ、また雅楽や和歌の奉行を務める家柄でした。さらに医薬の専門知識を持っていたので、知人をはじめ近隣の町衆などにも気軽に診察や投薬を行ないました。また窮乏する朝廷のために、今川義元、織田信長、徳川家康などの有力大名を訪れては再三、献金の要請をしています。
しかし公卿とは言っても、庶民とも気軽に交流し、みずからは清貧に甘んじる生活を送っていました。副業として音曲や舞いを指導したり、蚊帳を質に入れたりと苦労も絶えなかったようです。そのような状況を反映してか、朝廷や公家社会の窮乏ぶり、町衆の自治活動、芸能や文学など目配りは多岐にわたり、きわめて豊富な情報が盛り込まれて興味が尽きません。
なお、次男・言経(ときつね)による『言経卿記』(自筆本35巻)も同様、近世初頭の社会を知るうえで貴重な資料となっています。
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一揆と傘(からかさ)連判状
〜全員平等をかたちにする〜
歴史年表を眺めていると、14世紀から16世紀にかけての日本は、戦国時代にかぎっても馬借一揆、徳政一揆、国人一揆、土一揆、一向一揆など、いろいろな名を冠した一揆がずらりと並んでなにやら壮観な感じがします。しかしこの名称を見てわかることは、あらゆる階層に一揆が存在したということでしょう。つまり、一揆とはある目的を達成するために結成された集団ですから、目的別にその名を冠したものがいろいろあっても不思議ではないのです。
さて当時の一揆の最大の特徴は、その結びつきがヨコ型で主従関係がないということでしょう。もちろん、盟主的なリーダーはいましたが、参加者はあくまでも対等の関係にありました。しかし、一揆が同盟を結んで署名、という段になるといささか困ったことが起こります。
ふつう連判署名をするばあい、日付のすぐ下(これを「日下(にっか)」といいます)に署名した者がいちばん身分や地位が高いことと相場が決まっていましたが、先述のとおり一揆には上下関係がありません。そこで考えられたのが、署名者が輪になって署名するという「傘(からかさ)連判状」というものでした。
ちょうど傘を広げたとき、骨が中心から放射状に広がるような形に、円形に署名をしたのです。なんとも大胆でユニークなデザインですが、じつはヨーロッパにもRound Robinと呼ばれる同様の署名法があったといいます。
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戦国武将のたしなみ
今日の厳しいビジネス社会の状況は、あたかも戦国時代的様相を呈しているといっても過言ではありません。上昇志向の旺盛な人に限らず、英会話をはじめ各種の資格試験の取得に生き残りをかける、というのもあながち大げさな表現ではないようです。
さてここで突然話題を転じ、戦国時代の武将たちというものは、教養や趣味を含めた「たしなみ」をどの程度身につけていたのか、また求められていたのか、ちょっと調べてみることに致しましょう。島津義久の家来に、老中を務めた井上覚兼という教養人がいますが、その心得書によると第一に挙げられているのは意外にも和歌と連歌で、前者の場合はとくに『古今集』が筆頭になっています。次に礼儀作法に関する「有職」と、手紙の書き方である「書札礼(しょさつれい)」が必須とされていますが、これらは順当なところでしょうか。第三として、馬術、弓術、剣術とつづき、さらに鷹狩り、蹴球、鵜飼い、釣り、狩りなどを挙げていますが、さしずめスポーツをして体を鍛えよ、といったところだと考えられます。
なお、狩りには鹿・猪・雉・雁・鶉など対象もいろいろあったようです。織田信長も狩りを盛んに行ないましたが、実戦訓練の場として大いに奨励されたようです。いずれにしろ、出世するためにさまざまな教養が求められのは、いつの時代でも変わりないようです。
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戦国武将のたしなみ(承前)
前回、戦国時代における武将のたしなみについて記しましたが、現代社会人と比べても相当幅広く、多岐にわたっているため、小文では収まりきれませんでした。そこで、今回はそのつづきです。
今日でも根強い人気をもつ囲碁と将棋ですが、この「盤上の遊」が当時の武士の必修教養であったのはちょっと意外です。しかし、越前・一乗谷の朝倉館遺跡からは各種の将棋の駒が出土していますし、また織田信長は大変な囲碁好きで、本能寺の変の就寝前には側近と囲碁をしていたといいます。ただし、過度の熱中や賭け事はもちろん御法度でした。また、『宗五大草紙』という資料(1528年)によると、大鼓(おおつづみ)・小鼓(こつづみ)・太鼓をはじめ、笛・尺八・音曲・謡といった音楽関係の素養が挙げられ、また酒宴の席での芸も必修とあり、なにやら今日の社員旅行での宴会やカラオケバーの様子を彷彿とさせ、思わず笑いを誘われます。
しかしなんといっても注目すべきは、「料理」が武士のたしなみとされ、ヨーロッパの宣教師もこれについては戸惑いを書き記しています。ですが、絵巻物などには調理用の箸と包丁をもって料理をしている武士の図が、たしかに散見することができるのも事実です。またこのほか、算術や手習いが挙げられていますが、これは領国経営に携わる限り、当然の素養といえましょう。
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『おあむ物語』
中世以来、日本各地に起こった戦争の記録は多数残っていますが、ここでは戦国時代を回想した『おあむ物語』をご紹介してみましょう。
これは1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いのとき、石田三成の持ち城大垣城にいた女性の記録ですが、正確にいえば孫にあたる人物が、おあむという女性がくり返し話していたことを後年、筆記したものです。しかし彼女については、山田去暦という者の娘で夫と死別したのち甥に養われ、寛文頃(1661年〜72年)に80余歳で亡くなった、ということ以外は不明です。
物語は、ちょうどお婆さんがこどもたちにせがまれ、小さい頃の話をするような調子で書かれていますが、勇猛な武将が活躍する武勇伝ではなく、戦乱の片隅に生きた名も知れぬ人々の生活が活写されているのが特徴的です。彼女の家は三百石の知行取りであるにもかかわらず、朝夕の食事は雑炊で昼食も夜食もないこと、
13のときの帷子を17になるまで着ていたため、脛がはみだして困ったこと、(戦闘で取ってきた)敵の首をよく洗い、お歯黒をつけて上級武士のように見せかけたこと(あとで高額の賞金を貰えるため)などが淡々と語られ、興味はつきません。
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『おきく物語』
これは1615年(元和元年)の大坂城落城のとき、城内にいた菊という20歳の女性の体験を、後年になって聞き書きしたものですが、記録者については不明です。なお、菊という女性は池田家の医師・田中意得の母親で、83歳のとき故郷・備前で没しました。前回の『おあむ物語』と比べると、こちらは候文で書かれているせいもあってか物語の楽しさにはいささか欠けています。しかしおもしろいのは、落城のさい城内にいたにもかかわらず、下女に「そば焼き」を言いつけてそれを待っていると、玉造口をはじめ方々に火の手が上がっているので大騒ぎとなり、ようやく危機が迫っているのを知った、という信じられないような記述です。また、城外に脱出するときにも意外や意外、武士たちの姿は(ひとりを除いて)いっこうに見かけないこと、さらに戦闘シーンや戦死者の姿も目撃しなかったという事実によって、あの歴史的な大坂城攻防戦にもかなりのエアポケット的空間があったことがわかることでしょう。この物語が創作であれば、もっとも華々しい戦闘場面や落城の大混乱をことさらに記述するでしょうが、こうした拍子抜けするようなエピソードによって、わたしたちは逆に歴史的真実がもつ皮肉を知ることができるのかもしれません。
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花道の起源は?
茶道とならぶ日本の伝統文化のひとつに生け花がありますが、今日でもカルチャーセンターや生け花教室はいつでも盛況のように見受けられます。天然の草花を花器に挿す習わしは、だれに教わらずとも自然に行なわれていたことでしょうが、仏教が伝来してからは仏様に供える「供華(くげ)」として始まり、投げ入れの「瓶花(へいか)」、花木を立てる「立花」、草花を活ける「生花(せいか)」として発達し、やがて今日の花道として大成したことはよく知られるところです。
こうした挿花芸能は奈良時代から存在したものの、その技能にいちだんと磨きがかかるのは平安貴族たちのあいだで「花合わせ」「草合わせ」といった遊芸が起きたためと思われます。これらは、中国・唐の時代に流行した「闘草」に起源をもつもので、花器に草花を挿し、その技能の優劣で勝負を競うものでした。ちょうど宋代に茶の種類を当てる「闘茶」が日本に入り、茶の湯の源流になったことと似ているといえましょう。南北朝のころからは花の咲く木を花瓶に立てて飾る「立花」が盛んとなり、闘茶の会ではもっぱらこれが主流となりました。やがて室町初期になると、3代将軍義満の北山第では、立花を主体とする花合わせがしばしば行なわれるようになり、花道成立の第一歩をふみだすのです。
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花道の発展
前回、茶の湯とも深い関係をもつ花道について書きましたが、今回はその続きです。室町時代初期にさかんに行なわれた立花ですが、8代将軍義満の東山時代になると、同朋衆により書院飾りの法式として完成されます。すなわち、立花が床間に飾られ、鑑賞の対象となるのです。またちょうどその頃、頂法寺六角堂に池坊専慶という立花の上手が現れ、後世の池坊流の元を築きました。また、桃山時代になると立花はおおいにもてはやされるようになりました。大坂城、聚楽第、伏見城といった大建築、また大名たちの邸宅にある床の間の飾りとして歓迎されたのです。
一方、立花と対立して発展したものに「茶花」があります。東山時代の同朋衆から立花を学んだ村田珠光は、禅の精神をとり入れて侘び茶を開始し、草庵茶室を提唱するのですが、このとき草庵茶室を飾る投げ入れ花も同時に考案したのです。これが「茶花」と呼ばれるもので、以後、侘び茶、草庵茶室の広がりとともに流布し、のちに利休によってさらなる完成を見るのです。
なお、この茶花と立花は平行して発達してきたのですが、前者があまりにも侘びすぎて(シブすぎて?)一般的でないこと、一方、後者は豪華すぎて実用的でないことから、江戸時代前期、小規模で大衆的な「生花(せいか)」が発生し、時代がくだって生け花へと変貌を遂げていくのです。
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名門・島津家---薩摩隼人の伝統
薩摩・島津家初代忠久は源頼朝の落胤と伝えられていますが、これが本当であれば鎌倉時代の守護で唯一、明治維新まで生き残った大名、ということになります。戦国時代に活躍した15代目の義久は四人の兄弟とともに結束し、勢力争いの激しい九州にあって、大友や龍造寺との戦いに勝利し、破竹の勢いでその勢力を広げました。さすがに秀吉の前には屈しましたが、関ヶ原の戦いに参戦した次男・義弘は有名な「敵中突破」で戦線離脱を敢行、後に「島津侮りがたし」と家康をも妥協させることになります。このように敏捷で勇猛な薩摩隼人は、中央権力への反抗を伝統的精神とし、そのたくましい闘争力と強い団結力をもって怖れられ、異彩を放つ存在でした。
また闘争心や勇猛心の表れか、宴会はいつも破天荒で、酒の飲みっぷりもきわめて旺盛であったと言いますが、それを物語るこんなエピソードが残っています。宴たけなわになると、車座の真中につるした火縄銃の導線に火をつけ、推力を生じた銃がぐるぐるまわって最後に発射される弾がだれに当たるかのかを楽しむ、といった余興を行なったというのです。戦国版「ロシアン・ルーレット」が存在したのも驚きですが、こんな無謀な遊技で精神的ストレスを発散させる薩摩武士のタフさには驚嘆してしまいます。
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戦国時代の幼名〜これこそ親の愛のあかし…?〜
戦国武将の子供の命名は、現代の感覚でいえばおかしなものが多いようです。豊臣秀吉は待望の長男に棄(すて)、後の秀頼には拾(ひろい)などというとんでもない名前をつけています。織田信長の子供たちも奇妙、茶筅、於坊、大洞(おおぼら)、小洞(こぼら)、酌などと、まるで冗談のような幼名をつけていました。またこれらの幼名には、たとえば拾丸といったように、その後に丸や千代をつけて呼ぶのがふつうでした。それでは、なんでこうしたおかしな名前がつけられたのでしょうか。
戦国時代の武家では、とくに男子であればなおのこと、強い子供に育つように悪源太、悪四郎といった強そうな名をつけたり、犬、虎、龍など勇猛な動物にたとえたりしたようです。秀吉の長男・棄という名も、生まれた子を(形式的に)いったん棄てると良く育つ、という古い慣習に由来するのですが、結局は早世してしまい、つぎに誕生した子には拾いという名をつけたのでした。いつの世にあっても、親の子に対する思いは変わらないようです。そういえば少し前、我が子に「悪魔」と命名した親がいて話題になりましたが、こうした伝統(?)に則れば、あながち的外れではなかったのかもしれません。
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戦国武将と連歌の流行〜信長や秀吉も愛した芸能〜
和歌の上(かみ)の句と下(しも)の句をふたりで唱和することから起こった連歌は、古く『万葉集』にその起源が見られますが、鎌倉時代になると連歌師が出現し、大衆文芸へと変貌していきました。動乱の南北朝時代から室町初期にかけては、救済(ぐさい)や二条良基らの大家が現れて連歌の規範をつくりましたが、その後、東山時代には公武庶民を問わずに大流行し、心敬や宗祇らの著名連歌師を輩出しました。
こうした連歌の隆盛は、戦国時代になってもとまらず、新興の武家社会にも流行して連歌熱はますます高まっていくばかりでした。なかでも里村紹巴(さとむらしょうは)、織田信長、豊臣秀吉をはじめ、明智光秀、細川幽斎などの有力大名の知遇を得て思う存分その文芸活動を展開していったのです。
なお連歌は和歌とちがい、詠み方、会席の作法、故実、禁制などに関する式目が複雑で、それらを熟知していなければ連歌会に参列できませんでした。したがって、それらの故実は秘事として口伝または秘伝書として伝授され、師から弟子へと受け継がれていったのです。
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戦国時代の記録(3)『雑兵物語』
私たちは、戦争というものは大将や高級武将だけで行なうものではなく、むしろ最下層の兵卒である雑兵の働きに負うところが大きいことをつい忘れてしまうようです。じっさい、ひとりの身分ある武士が出陣するにさいして、弓足軽、鉄砲足軽、槍担ぎ、馬標(うまじるし)持ち、旗持ち、草履取り、挟箱持ち、馬取り、矢箱持ち、玉箱持ち、食料運搬係り、そのほか若党、中間(ちゅうげん)といった人員が必要であることに思い至れば、華やかな合戦とは異なる労苦が、おのずとイメージされてくるはずです。
『雑兵物語』(岩波文庫版あり。現在品切れ)は全二巻からなり、松平信興ほか数名の著者候補がいるものの、定説はありません。明暦3年以降天和3年以前の間の成立と考えられているので、関ヶ原の戦からは半世紀以上の年月が経っています。しかし、関ヶ原の戦を裏で支えた雑兵30名の功名談、失敗談、見聞などの形式を借りて、陣中の心得、武具の取り扱い、兵器の操作、またあるいは戦場の駆け引き、食料補給、救急医療といった、まさに戦さにおけるノウハウが平易かつ直裁に記されています。高級武将の戦陣訓や軍学書、また大げさな戦記物語ではなく、底辺に位置した者の視線で語られた貴重な記録といえましょう。
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家臣団の構成
戦国大名は領国内の政治経済を支配し、分国法の制定や都市(城下町)の建設、土地や戸口の調査、商工業の保護育成などさまざまなことを行ないましたが、活動の中枢を担ったのが家臣団であり、その優劣が大名の死命を制しました。武田信玄、上杉謙信、織田信長、徳川家康といった後世に名を残した大名たちは、みな有能な家臣団を抱えていたことはよく知られています。それでは、家臣団とは一体どのような組織であったのでしょうか。
「一門衆」は領主の血縁にあたる一族で、家臣団の最上位に位置しました。「譜代衆」は古くから仕えていた家臣で、家臣団の名門です。「国衆」は領国内に土着していた武士で、領地や領主との結びつきから城下に結集され、軍団を形成しました。「新参衆」は戦争で敗れたもの、土地を併合された結果新たに家臣となった人たちですが、どれくらい前から仕えていれば譜代か新参衆か、といった明確な基準はありませんでした。そのほか、馬に乗ることができる侍、歩兵である足軽、「一領具足」といわれた臨時の足軽などがいました。また、いざ戦争となると他国からの浪人や農民を雇うため、これを統率する「寄親」を設け、家臣団の有力者がこれにあたりました。
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戦闘時の役割分担
どんな組織でも役割分担が明確に決められ、それぞれが十分に機能しなければ、大きな成果を挙げることができないのはいつの世でも同じです。そして、これを指揮するリーダーたちの力量如何によって勝利するか敗れるか、といった事実もまた昔も今も変わらない基本原理でした。それでは戦国時代、戦闘時におけるリーダーたちの役職にはどういうものがあったのでしょうか。
「総大将」は文字通り全軍を統轄するリーダーのなかのリーダーで、「副将」が補佐しました。「先手大将」は真っ先に敵に当たる先鋒隊の大将のことで、「軍大将」はその日の合戦を任された指揮者をさします。「武者大将」は合戦のときに臨時に任命され、全軍の武士を統率する重要な任務でした。「足軽大将」は十数人ずつに分かれていた足軽各組の統率役でした。「旗大将(旗奉行)」は全軍を象徴する旗を管理し、合戦のときは大将のもとで旗を死守しました。このほか、槍組を指揮する「長柄大将(槍奉行)」、弓組を指揮する「弓大将」、鉄砲組する「鉄砲大将」がいました。また、「軍師」は戦術や作戦を担当しましたが、ときには軍法の制定にも関わりました。
映画やテレビを見ていると、ただがむしゃらに戦っているように見える合戦も、こうした組織や役割分担に基づいて行なわれていたことがよくわかります。
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戦国時代の貨幣
戦国時代の貨幣制度は不明な点が多いのですが、使用されていた貨幣の中心は中国からの渡来銭が多く、私的に鋳造された私鋳銭は劣悪で「鐚(びた)銭」とも呼ばれました。戦国末期に豊臣秀吉によってわが国最初の大判といわれる「天正大判」が鋳造されましたが、金・銀・銭の三貨体制が確立されるのは、江戸時代に入ってからのことです。それでは、戦国時代の貨幣についてもうすこしくわしく見てみましょう。
「渡来銭」には宋銭、明銭が多く一枚一文の値がありました。「私鋳銭」はもっぱら国内で鋳造されましたが、長崎でつくられた長崎銭が有名です。「永楽銭(永楽通宝)」は明の永楽帝時代(15世紀初頭)から鋳造されたもので、やはり一枚一文でした。室町時代以降からわが国に定着しましたが、小田原北条氏はその価値を他の良銭の二倍としたため、経済活動の中心となりました。
戦国時代には「鐚(びた)銭」の流通量が多く、値打ちが低かったのでこれを嫌う傾向が強くなりました。これを「撰銭(えりぜに)」といい、商取引の停滞を招いたため幕府や大名はこれを禁止する「撰銭令」を乱発しました。1569年(永禄12)の織田信長のものが特に有名ですが、比較的効果があったといわれています。
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「南蛮」ということば〜中華思想が起源?〜
南蛮人といえば、私たちはただちにヨーロッパ人宣教師、ポルトガルやスペイン船の商人を思い浮かべるのが普通です。もともとは中華思想に基づいた「東夷西戎南蛮北狄」という語から採られたもので、南蛮人とは南の方に住んでいる野蛮人といったような意味のことです。
しかしながら、このことばが日本の文献に現れるのは意外に早く、10世紀の『日本略記』には九州の太宰府管内の諸地方を南蛮人が荒らした、と記されています。そこに登場する南蛮人とは、じつは奄美大島の人びとであることが明らかになっていますが、15世紀に日本海の若狭に漂着したと記されているのは、東南アジアのジャワ人であることも知られています。
以上のことから判明するには、日本で南蛮人というときは、南方からきた見慣れない外国人すべてを含んでいた、ということでしょう。種子島に漂着したポルトガル人はもとより、奄美大島、インドネシア、インド、ヨーロッパからやってきたすべての人びとをさしたのでした。言い換えれば、日本人の地理概念が拡大するにつれて、南蛮を意味する地域も広がっていったということでしょう。ちなみに、頭に南蛮ということばが付いた語句は現在でもたいへん多く、『広辞苑』(第2版)には24、『大辞林』(第1版)には25も収録されています。
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日本に来たバテレンたち
戦国時代に来訪し、キリスト教を布教したヨーロッパ人宣教師のことを「バテレン」と呼び「伴天連」と表記したことはよく知られています。古い日本の文献には「パーテル」とか「パアテレ」などとも書かれ、ラテン語のPATER、ポルトガル語のPADRE、すなわち司祭・神父のことをいいました。このパーデレに漢字を当て「伴天連」とし、日本語読みされて「バテレン」となったと思われます。日本で布教にあたったバテレンは、イエズス会に所属した人が一番多く、他にフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会のいずれかに所属していました。国籍はポルトガル、スペイン、まだ統一されていなかったイタリア各地の出身者が多く、そのほかにフランス、ポーランド、フランドル地方(ベルギー、オランダ地方)の出身者も少数ですがいたようです。なお、日本人でバテレンになった人も相当いたといいますが、じっさいは修道士(イルマン)でした。バテレンの数は、年度により変動が多いので正確さを欠きますが、1610年頃には69名を数えました。当時、司祭になっていない修道士をこれに加えた総計138名が、布教に従事していました。
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バテレン追放令にまつわる謎
1587年(天正15)、豊臣秀吉は九州平定の帰途、博多において突然「バテレン追放令」を発して周囲を大いに驚かせました。九州遠征では宣教師たちに好意的に接し、戦災で焼けた博多の教会復興の許可も受け入れていたからです。しかも博多滞在中、秀吉はそれまでポルトガル船を見たことがないからと、フスタ船と呼ばれる小型の船に
乗船し、宣教師たちから歓待されていたという事実があったからでした。
乗船した秀吉は、南蛮料理とワインを楽しみ、船内をくまなく見学してからレモン漬けとワインのおみやげまでもらって引き上げましたが、船のなかではポルトガル語を書いてくれとせがみ、そのことばを2、3度繰り返して「予はバテレンの弟子だ」と冗談まで言って周囲を笑わせたというのです。これは、博多の豪商神屋宗湛の日記に出
てくる有名なエピソードです。
史上名高い「バテレン追放令」は、フスタ船に乗船した6日後の7月24日の晩、突如発令されました。バテレンは20日以内にただちに国外へ退去、という厳しい内容で、また秀吉と同じ陣にいたキリシタン大名高山右近にも棄教を迫り、
従わない場合は領地没収という命令をくだしたのでした。しかし、わずかな期間に生じた秀吉の心境の変化は、今となっては想像するしかありません。
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フェリペ2世に「ノー」と言った秀吉
天正遣欧使節の一行が8年の旅を終えて帰国した1590年(天正18)は、すでに織田信長から豊臣秀吉の治世に代わっていました。翌91年3月、秀吉が建立した聚楽第で、使節団との謁見が行なわれ、スペイン国王兼ポルトガル国王フェリペ2世からの品々が秀吉に贈られました。それらは、銀の鐙(あぶみ)をつけ、黒いビロードの掛け布をしたアラビア馬1頭、金銀をちりばめたミラノ製甲冑ひと組、黄金の剣、火縄銃、金色のタピストリー、時計といった豪華な品物でした。一方、秀吉からも刀剣、長刀、象眼細工を施した甲冑ふた組が返礼品として国王に贈られました。
さてこのとき、返礼の品と一緒にフェリペ2世に手渡された手紙のなかで秀吉は、日本は神道と仏教の国であるから、キリスト教の宣教師たちが活動をつづけるのは好ましくないことをきっぱりと記しています。「スペインが動けば世界は震える」といわれたスペイン全盛の時代、しかも残酷な異端審問で名を馳せたカリスマ的独裁者も、こうまでハッキリ拒絶されたことはないでしょうから、さぞや切歯扼腕、怒り心頭に発したことでしょう。アメリカの言いなりになっているどこかの国の首相に、秀吉の爪の垢でも煎じて飲ませたいと感じさせるエピソードではありませんか。
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明治時代に「発見 !?」された天正遣欧使節
前回ふれた天正遣欧使節の一行が、ルネサンス文化真っ盛りのヨーロッパに到着するや、スペイン国王、ローマ法王、トスカーナ大公、ヴェネツィア大統領といった最高権力者たちから次々と最大限の歓迎を受けたことは、まさに「事件」といってもよいほどの出来事でした。使節一行が旅行中の1585年の一年間に限っても、彼らおよび日本に関する書物が48種類も出版され、さらに85年から93年までに90種類の本が刊行されるという、一大ブームが起こりました。現在とは雲泥の差がある当時の出版状況を考えると、まさに異常といえるフィーヴァーぶりでした。ところが不思議なことに、これほど重要な歴史的事業も、鎖国をしていたこともあってか、日本ではほとんど知られていなかったということです。1873年(明治6)、明治政府から派遣された岩倉具視らの視察団が、ヨーロッパを巡行中、ヴェネツィアの文書館で「昔ここに日本人の一行が来た」といって関係書類を見せられ、ようやく事の次第を知ったというのですから、なんとも驚くばかりです。
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日本にもたらされた西洋音楽
16世紀半ばより以降、イエズス会宣教師たちや、天正遣欧使節一行によって西洋の音楽や楽器が日本にもたらされましたが、一体それはどのようなものであったのでしょうか。
具体的に挙げると、クラボ、アルパ、リュート、ラベイカという名前の楽器が分かっていますが、これは順にチェンバロ(フランスではクラブサン)、ハープ、マンドリンの古い形、バイオリンの前身、ということになります。このほかに、ビオラ=ダルコという弦楽器、フラウタと呼ばれたフルート、そしてこれはおなじみのオルガンなどもありました。また、日本人のあいだにもこうした楽器を巧みに演奏をする人びとが次第にあらわれてきますが、キリスト教が弾圧されると公然とは演奏できなくなり、残念ながら明治維新に改めて西洋音楽が移入されるまで、途絶えてしまいました。しかし、キリシタン版と呼ばれる日本で印刷物された書物のなかに『サカラメンタ提要』という本があり、そのなかに当時教会で歌われていたグレゴリオ聖歌の楽譜が残っていたのです。もちろん、これをそのまま演奏すれば当時の音楽が分かり、たいへん貴重な資料となっています。
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