関ヶ原日記バックナンバー
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1月1日 大坂(当時は阪でなくこの字を使っていました)周辺の大名たちの新年はあいさつまわりからはじまります。まず、本丸で豊臣秀頼に賀正し、続いて、西の丸の徳川家康のもとにでかけています。わかりやすい権力の二重構造ぶりです。それでは、秀吉が豊臣家の命運を委ねた他の五大老たちはというと、上杉景勝は7月、前田利家の跡
継ぎ・利長は8月領国に帰り、宇喜多秀家・毛利輝元も12月初めまで大坂にいたのですが、その後帰国してしまいました。家康はひとりで政局をおもうがままにしていたのです。
1月3日 豊臣秀頼は若狭小浜城主木下勝俊を京都の豊国社に代参させています。豊国社は秀吉を神格化してつくられたもので、1599年4月に正遷宮されました。後に豊臣家滅亡の一因となった『国家安康』の鐘銘で有名な方広寺の鎮守社という位置づけになります。豊国社は全国に分祀されるようになり、秀吉の画像や秀頼直筆の「豊国大明
神」の書がつくられました。なお、木下勝俊は秀吉正室(おね)の甥にあたります。関ヶ原合戦で失領。のち長嘯子と名乗り、和歌の世界で名をあげました。
1月5日 大名たちの秀頼・家康へのあいさつまわりはこの日で一段落。五大老の中でも、家康と前田利家は別格でした。
家康は伏見城(京都)、前田利家は秀頼の傳役(もりやく)として大坂城にいることになっていました。ところが、1599年閏3月、利家が死去し、利長の代になると、徳川家康のすすめもあって、利長は8月28日帰国してしまいます。
一方、家康は、9月7日秀頼に重陽の挨拶をするという名目で大坂にのりこみ、8月京都に移った秀吉の正室(おね)のすまいだった西の丸に居すわったのです。
1月9日 家康は摂津茨木(大阪府)に狩りにでかけました。武将たちの狩りといえば、鷹狩りです。
家康は前年の12月8日にも摂津茨木で狩りを楽しみ、この時は捕獲した鶴を朝廷に献上しています。
鶴はペットとしてでなく、食べるためです。
この時代、鶴や白鳥も高級食材として用いられていたのです。どんな味がしたのでしょう。
1月11日 秀頼は近江大津城主京極高次を名代にして天皇に正月のあいさつをします。高次の奥さんは、浅井長政・お市の方を父母とする戦国の三姉妹、淀殿(秀吉室)の妹、お江(徳川秀忠室)の姉になります。また、前日、大坂から京都に帰ってきていた五奉行のひとりで京都所司代でもある
前田玄以も参内しました。
1月14日 1599年秋から1月ころにかけて、宇喜多家でお家騒動がありました。当主、秀家は五大老のひとりで、備前・美作を中心に57万石を領していました。当時29歳。正室は前田利家の娘で秀吉の養女となり秀吉に寵愛され宮沢りえ主演で映画化されたこともある豪姫です。宇喜多家の家老浮田直行一派と家老明石全登一派の反りが合わず、ついに直行一派は大坂の浮田屋敷に剃髪し立て籠もり、町中ところどころ焼きはらうという事件がおこったのです。(つづく)
1月15日 宇喜多家のお家騒動に対し、大谷吉継や家康家臣・榊原康政が仲裁に入りましたが解決できません。最終的に、浮田らは宇喜多家を追放されることになりました。この一件を宇喜多家を弱体化させる家康の陰謀とみる人もいますが、事実はわかりません。なお、浮田直行は坂崎出羽守直盛と改名、関ヶ原では東軍に属し活躍、後の大坂夏の陣で千姫(秀頼室・家康の孫)を救出するヒーローになりました。
1月17日 家康は天皇への年始のあいさつに参内する予定でしたが、病気のためでかけられませんでした。
1月18日 高台院(秀吉の正室・お禰)が京都・豊国社に詣でています。高台院がこの日を選んだのは1598年8月18日に秀吉が没したからです。
1月23日 しばらく重要な事項がないので、1月25日の出来事にかかわる前田利長VS家康の話をしましょう。家康は1599年9月7日大坂にのりこんできました。その日、五奉行の一人、増田長盛が家康に暗殺計画があることをつげます。実行犯が浅野長政・大野治長らでその首謀者が前田利長という内容でした。家康は大野治長を常陸に流し、五奉行のひとり浅野長政を領国甲斐に蟄居させてしまいます。(つづく)
1月24日 家康は加賀小松城主丹羽長重を先鋒として利長を征伐するという情報をながします。加賀に帰った前田利長にとってまさに寝耳に水の話は五大老のひとり宇喜多秀家からもたらされました。利長は家臣を大坂に派遣し叛意のないことを家康に弁解しましたが、なかなか家康を納得させることができません。1599年12月になって、利長は母・芳春院(まつ)を人質として江戸に下向させるという屈辱的な条件をのまされ、加賀前田家は家康に屈してしまったのです。
1月25日 前田利長謀反の噂に関して、細川忠興も家康からなんくせをつけられました。忠興の子、忠隆の奥さんが前田利長の妹だったからです。忠興は誓書までだして無実を訴え、15歳の第3子光千代を人質として江戸にだすことにしました。光千代が江戸にたったのがこの日です。忠興じしん、自分の奥さん(ガラシャ夫人、明智光秀の娘)の件で本能寺の変後、嫌疑をかけられましたので、この時の対応は早かったようです。諸大名が江戸に人質をだすのはこれが第1号になりました。
1月26日 1月26日はめぼしい出来事がありませんので、1月25日のできごとをもう一件あげておきます。今度の主人公は細川忠興のお父さん幽斎です。この日、幽斎は八条宮智仁親王に「古今和歌集」の講義をしています。幽斎は足利義昭、信長、秀吉に仕えた有力武将ですが、和歌・茶道・料理・刀剣鑑定などに長じた当代一流の文化人でもありました。和歌に関しては三条西実枝から古今伝授をうけるほどで、この事が、後に幽斎の命を救うことになります。
1月30日 家康は下総の小笠原秀政の娘(家康の外孫)を養女にして、阿波徳島の蜂須賀家政の嫡男至鎮に嫁がせました。大名間の婚姻は秀吉の遺命により禁じられ、1599年正月には、それがもとで、家康 VS 前田利家・五奉行間で一発触発の事態になり、家康が侘びるという事態も起こっています。家康はそれを堂々と無視し、反家康勢力を刺激したのです。
2月1日 家康は信濃川中島の田丸直昌(ただまさ)を美濃岩村に移し、美濃兼山の森 忠政を信濃川中島に移しました。直昌は4万石で横滑りですが、忠政は7万石から13万7千石にふえています。忠政は父・可成、長可・乱(蘭)・力・坊、四人の兄を戦場で 失った戦国時代のプライベイト・ライアン。ちなみに長可も信濃川中島の領主になったことがあります。1582年のことで、その年に本能寺の変がおこりました。森氏が川中島の主になると武田信玄のたたりで天下が乱れる、と当時の人々は噂しました。(うそです)
2月2日 上杉景勝は当時白河(福島県)にいた家臣たちに道路工事と諸城の普請を督促しています。 景勝が越後から会津に転封になったのは1598年1月、同年3月22日足をふみいれました。同年8月秀吉の訃報に景勝は急遽西上、領国を掌握し再整備する余裕はなかったのです。1599年8月、景勝は大坂を離れ帰国、領内の整備をすすめました。この事が家康に上杉攻めの口実を与え、時代は関ヶ原へ大きく動きだしました。(つづく)
2月3日 上杉景勝は叔父謙信の養子です。謙信の死後、景虎との家督争いを制し、上杉家を継 ぎました。1586年、秀吉に臣従。この仲介をしたのが石田三成と増田長盛です。翌年、景勝は新発田氏を滅ぼし、越後を統一。1589年には佐渡も領国としました。1598年、越後91万石から会津120万石に転封。徳川氏・毛利氏に次ぐ全国第三位の大領主で、その領国は会津だけでなく、陸奥庄内地方、佐渡におよんでいます。軍令に厳しく、行軍中、私語を発するものはひとりもいなかったといいます。
2月7日 家康は細川忠興に豊後杵築(きつき・大分県)に6万石を加増しました。2月1日、 田丸氏・森氏の時は家康自ら文書をだしていますが、この時は三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)に命じて、3人の連名で文書を発給させています。忠興がいち早く人質をだしたことへの褒美なのでしょうか。(1月25日参照) 忠興は4月に新領地を巡検しています。
2月8日 上杉景勝は甘糟景継に白石城(宮城県南部)修築を命じ、北境の伊達政宗の動静をさぐらせました。
2月10日 会津若松城は山に近く城域の拡張が難しいことから、上杉景勝は直江兼続に神指村(会津若松城から北西3キロ)に新城の築城を命じました。
本丸は3月18日、二の丸は5月10日に工事がはじまり、6月1日に造営がほぼ完成しました。本丸の規模は東西180メートル・南北307メートルで、
東西北の三方に門を開き、水壕をめぐらせていました。直江兼続は上杉景勝が全幅の信頼をよせた名参謀。景勝が景虎と家督を争った際、功績があり、以後、重用されました。(つづく)
2月11日 1588年、兼続は景勝とともに上洛、秀吉から豊臣姓を許されるとともに、従五位下・山城守に任ぜられました。景勝の会津入部にともない、兼続は米沢城主となり6万石を領します。関ヶ原合戦の西軍挙兵と家康挟撃作戦を直江兼続と石田三成が示し合わせていた、ともいいますが信憑性はありません。兼続は文化面でも大きな足跡を残し、命じて刊行させた『文選』60巻は直江版とよばれています。
2月16日 豊臣秀頼は醍醐寺(京都)の座主・義演を大坂城によび大般若経を転読させています。大般若経は全600巻の大経典。ぱらぱらとめくり全体を読んだのにかえるのが転読です。古来、国家鎮護のため東大寺などの有力寺院や宮中で大般若経の転読がさかんにおこなわれました。秀頼は当時8才、テレビなどでは、必ず母「淀君」が横にひかえ権勢を振るっています。しかし、彼女の動向は当時の文献にあまり記録されていません。しばらく重要な事項がないので、数回にわたり「淀君」の紹介をしましょう。(つづく)
2月17日 「淀君」の君はいくぶん差別用語の意味あいを含んでいます。当時のストリートガールが「辻君」と呼ばれたからです。当時の人々が彼女にむかって「淀君」とよんだりすることはありません。幼名は「お茶々」で、「淀殿」「二の丸殿」「西の丸殿」などと呼ばれていました。この日記でもこれからは、少し堅苦しく感じるかもしれませんが、「淀殿」とよぶことにします。「淀君」という名が広まったのは江戸時代のかなりあとになってからで、彼女の奔放ぶりが豊臣家を滅した、といったニュアンスを含んでいます。(つづく)
2月18日 この頃、淀殿は30代半ば、松田聖子ばりの噂の主人公でした。淀殿が秀頼の兄・鶴松を産んだ時、本当の父は秀吉でないという噂を宣教師が書き記していますし、大野治長との不倫・はてまた家康と淀殿が祝言をあげるという風聞まで確かな文献に残っています。江戸時代に入ると、前田利長・名古屋山三郎との不倫話まででっちあげられ、スキャンダラスな女王というイメージが定着し「淀君」とよばれるようになったのです。
2月20日 2月から3月にかけて、家康は大坂城西の丸に天守を建て始めます。奉行は築城の名手、藤堂高虎でした。大坂城は本丸、西の丸に天守をもつ権力の二重構造を反映した奇妙な構造になります。本丸天守が下見板張りで黒色、家康の天守は漆喰で白色、その外観も際だった対照ぶりでした。
2月25日 家康の命により閑室元佶(かんしつげんしつ)は『貞観政要』を校訂し、出版。元佶は臨済宗の僧。関東における漢唐古学研究の拠点、下野足利学校の第9代学校長。家康の信任厚く、関ヶ原合戦では、本陣で筮竹うらないをしています。
また、元佶は『貞観政要』のほか、『孔子家語』『周易』などを出版、「伏見版」と呼ばれ印刷文化のうえでおおきな貢献をしました。
2月26日 25日の出来事をもう一件あげておきます。秀頼は方広寺に多くの僧侶を集め秀吉の供養をおこないました。方広寺は、1586年秀吉が創建、その鎮守社が豊国社です。(1月3日参照)
2月25日 家康の命により閑室元佶(かんしつげんしつ)は『貞観政要』を校訂し、出版。元佶は臨済宗の僧。関東における漢唐古学研究の拠点、下野足利学校の第9代学校長。家康の信任厚く、関ヶ原合戦では、本陣で筮竹うらないをしています。
また、元佶は『貞観政要』のほか、『孔子家語』『周易』などを出版、「伏見版」と呼ばれ印刷文化のうえでおおきな貢献をしました。
2月26日 25日の出来事をもう一件あげておきます。秀頼は方広寺に多くの僧侶を集め秀吉の供養をおこないました。方広寺は、1586年秀吉が創建、その鎮守社が豊国社です。(1月3日参照)
3月3日 最上義光(よしあき)が上京しました。義光は山形城主(24万石)です。上杉景勝(120万石)・伊達政宗(58万石)と所領が接し、関ヶ原合戦では複雑な動きをしました。政宗の母(保春院)が義光の妹で、政宗とは伯父・甥の関係になります。しかし、両者は折り合いが悪く、天正年間から幾度となく争っています。政宗への対抗上、義光は景勝と同盟する素振りを見せますが、1999年10月には、家康から領内を堅固にするよう書状をもらい、景勝の動向を家康に報告していたのです。
3月4日 2月から3月にかけて、越後の堀 直政は館林城(群馬県)の榊原康政(家康家臣)に会津の情勢を報じました。直政は岐阜市茜部出身で信長に側近として仕えた堀 秀政の従兄弟、茜部周辺の出身と思われます。直政は秀政に仕え、賤ケ岳合戦では、柴田勝家の馬標(金の御幣)を奪取するという大活躍をみせます。1590年、秀政が死去すると、その子・秀治に仕えました。1598年、秀治の越後転封の際、5万石を与えられ三条城主(新潟県)になりました。(つづく)
3月5日 堀 直政の報告は次のような内容でした。「景勝は多くの牢人を召し抱え、新城を築き、道橋を整備し、馬具・弓鉄砲を大量に調達している。あまつさえ、旧領の越後では民百姓等が景勝を慕い、それを利用して一揆を企てるのでないかと、気を遣い枕を傾けて寝ることもできません」この情報は榊原康政から家康に伝えられました。さらに、本多正信(家康の謀臣)が直政の使者を呼んで、景勝の動向を尋問しています。
3月7日 家康の第八子・仙千代が6才で亡くなりました。母はお亀の方。お亀の方は岩清水八幡宮(京都府八幡市)の神職清水清家の娘で、はじめ竹腰定右衛門に嫁いで嫡男を生み、夫と死別後、家康の側室になりました。竹腰家は斎藤道三に仕えた家柄で、江戸時代には、尾張藩の家老として3万石を領することになりました。
3月10日 日向庄内(宮城県南部都城周辺)の伊集院忠真(いじゅういんただざね)が島津氏に降伏しました。経緯は、1599年4月、島津忠恒(後、家久に改名)が老臣伊集院忠棟を伏見の茶亭でお手討ちにしたことにはじまります。同月、その息子・忠真が反乱をおこしました。10月には家康が寺澤広高を派遣し、事態収拾をはかりますが収まりません。正月、島津忠恒が大軍を率い庄内に攻め入り、忠真は降伏を余儀なくされたのです。(つづく)
3月11日 島津忠恒は関ヶ原合戦で敵中縦断退却という名脇役を演じた義弘の二男です。島津家の当主は義弘の兄・義久ですが、1593年には忠恒が島津家の継嗣となっています。1595年、義久は大隅国富隅(鹿児島県姶良郡隼人町)に移居、鹿児島を明け渡し、引退の準備をしています。朝鮮出兵でも義久は病気を理由に参加せず、義弘が島津軍をひきいました。1598年、泗川の戦いでは、島津軍が明の大軍を撃破し、日本軍の撤退を安全なものにしたのです。(つづく)
3月12日 1599年、義弘と忠恒は京都・伏見にいましたが、伊集院の反乱もあり、家康から帰国を勧められました。しかし、義弘は伏見にとどまり、本国と畿内の連絡役をつとめ、そのまま関ヶ原合戦を迎えることになったのです。なお、関ヶ原合戦で、義弘の身代わりとして戦死した豊久は義久・義弘の弟家久(1589年死去)の遺児になります。
3月13日 上杉謙信23回忌の大法会のため、景勝は領内の諸城主を会津若松に集めました。伊達氏との境界域を守る城主たちはこのためにわざわざ人質を伊達方に送るなどして参列しました。
3月15日 藤田信吉が妻子を引き連れ会津を出奔しました。信吉はもと武田氏に仕えていましたが、勝頼滅亡後、景勝に転仕しました。1600年の正月には、景勝の名代として上坂し秀頼や家康に年始の挨拶をしています。この際、家康から景勝の上洛を促され、さらに刀剣や金銀を贈られました。信吉は帰国して、上杉・徳川両氏の調停に努力しましたが、かえって直江兼続と対立、出奔したのです。
3月16日 豊後・臼杵湾口に一隻の洋式帆船が漂着しました。船はオランダ・ロッテルダムの貿易会社が所有するリーフデ号で、1588年に船出した時は110人の船員がいましたが、この時船室から救出されたのはわずか24名、そのうち3人は絶望的という状況でした。ともあれ日本に来航した最初のオランダ船で、当時の人々は黒船(スペイン船)
の敵であると噂しました。家康の命により、リーフデ号は和泉・堺へ回航されることになります。
3月18日 豊臣秀頼は山城方広寺の講堂、回廊等を建造しています。
3月23日 藤田信吉(3月15日参照)は江戸で徳川秀忠に会い、会津の状況を報告しました。秀忠は家康に飛脚を送り、信吉は飛脚の後を追い西上、家康に謁見しています。その後、信吉は大徳寺で剃髪、関ヶ原合戦後、家康に仕え下野で1万石を与えられました。
3月27日 豊臣秀頼は四天王寺を再興し、供養を行いました。朝廷は勅使として勧修寺(かじゅうじ)晴豊・大炊御門(おおいみかど)経頼・烏丸光宣を派遣しています。
四天王寺は大阪市天王寺区にあり、聖徳太子の創建と伝えられています。寺域はしばしば戦場となり、1576年には織田信長によって灰燼と化していました。伽藍の再建工事は1594年、秀吉が石田正澄(三成の兄)・片桐旦元らを修造奉行に任じて着工、この日完成したのです。
3月31日 最上義光(3月3日参照)・堀 直政(3月4〜5日参照)・藤田信吉(3月15・23日参照)からの情報を名目にして、家康は対上杉戦略を本格化させます。前田利長の場合はこの時点で簡単に屈服したのですが(1月23〜24日参照)、景勝は動じません。家康は自ら出陣して景勝を攻める姿勢をみせます。
しかし、宇喜多秀家・毛利輝元・大坂の奉行衆たちが反対し、景勝に釈明と上洛を求める使者を派遣することになったのです。(つづく)
4月1日 伊奈昭綱(家康家臣)・河村長門(増田長盛家臣)が上杉景勝詰問の使者として選ばれ、大坂を出発しました。家康が京都相国寺の西笑承兌(じょうたい)に直江兼続(2月10〜11日参照)あての書状を認めさせ、使者に持参させたともいいますが、これはかなりあやしい話です。西笑は秀吉・家康のブレーンとして活躍、寺社行政だけでなく外交通商文書の作成にも関与しました。その一方で、「僧侶でありながら成人の息子がいるだとか、金銀の蓄財にはげんでいる」という風評のたった人物でもあります。
4月2日 4月1日のできごとを追加しておきます。前田玄以のリクエストで、天皇は「豊国大明神」の名号を宸書し(しんしょ・・・天皇自筆)下賜しました。
4月4日 朝廷は権大納言勧修寺晴豊を大坂に遣わし、刀・馬を豊臣秀頼に下賜しました。正月のご挨拶に対する返礼だそうです。(1月11日参照)ずいぶん時間がかかりますね。
4月5日 これも4月4日のできごとです。京都醍醐寺三宝院の金堂が竣工しました。正月14日、豊臣秀頼の命により前田玄以が再造させたものです。醍醐寺は高野山・東寺とならぶ真言宗の拠点寺院。1598年、秀吉が花見をしたことも有名です。花見当日、荒れ果てた伽藍を見た秀吉が修理や新造を命じたのです。
その事業は秀吉の遺命として続行されました。同寺三宝院義演は秀吉の帰依をうけ、この『関ヶ原日記』でもたびたび登場します。(2月16日参照)
4月7日 松平忠明は従五位下下総守に叙任されました。忠明は奥平信昌の四男で、母は家康の娘・亀姫です。1588年、忠明は家康の養子となり、松平姓を名乗っていたのです。
忠明のお父さん信昌は、1575年、長篠合戦で武田軍に包囲された長篠城を固守し、男を上げ、亀姫を奥さんにもらいました。関ヶ原合戦後、加納城主(岐阜市)となり、10万石を領しました。戦国時代の逆タマといってよいかもしれません(つづく)
4月8日 ここで主要大名の官位をみておきましょう。正二位 徳川家康(内大臣)・従二位豊臣秀頼、・従三位、織田秀信、小早川秀秋、徳川秀忠、宇喜多秀家、上杉景勝・従四位下、結城秀康。実力に比して、岐阜城主織田秀信の家格が高いことがわかりますね。これは秀信が信長とともに本能寺で倒れた信忠の嫡男で織田家嫡流だったことによるものです。
4月10日 4月6日から10日にかけて、徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家の連署状が集中してだされています。これが、三大老としての最後の文書になりました。ここで、いわゆる五大老・五奉行制について補足しておきましょう。この用語は現在一般的に使われていますが、当時はまったく逆の呼び方をしていました。五大老のことは「五人の御奉行」、五奉行のことを「五人の年寄共」などとよんでいたのです。江戸時代初期にこの用語が逆転し、17世紀後半に「五大老」「五奉行」という呼び名が定着したのです。(つづく)
4月11日 五奉行の中でも長束正家は財務、前田玄以は京都・朝廷対策のスペシャリストで、残りの石田三成・浅野長政・増田長盛が政務全般という感じです。三成と長政は相当仲が悪かったようで、来日していた宣教師も二人の対立を関ヶ原合戦の要因にあげているほどです。その二人も1599年閏3月と9月に強制引退させられ、態度の煮え切らない増田長盛しか残らなかったことが豊臣家の不幸といえるでしょう。
4月13日 伊奈昭綱、河村長門が会津若松に到着しました。対面した直江兼続は、牢人を召し抱えるのは加増分をおぎなうため、新城の築城は上坂した際に報告済、武器を集めるのは上方の武士が高価な茶道具を収集するのと同然で、武勇を第一とする上杉家の家風と主張し、上洛も拒絶しました。なお、西笑承兌からの書状に対し、兼続が認めた返書が『直江状』として著名ですが、これもフィクションでしょう。(4月1日参照)
4月16日 前田玄以は朝廷に対し、4月18日、豊国社へ勅旨を派遣するよう依頼しました。
4月17日 家康は大坂城を出発、伏見城に入りました。当初は14日の予定でしたが、延引となっていました。目的は豊国社参詣と朝廷へのご挨拶です。この日、家康は二日後に参内することを朝廷に通知しています。翌日、家康は洛中の施薬院全宗(医者)の屋敷に宿泊、冷泉為親・山科言経などがお目通りにでかけました。
4月18日 朝廷は権大納言日野輝資を勅旨として豊国社に派遣。秀頼は京極高次をして代参。家康も参詣しました。豊国社の本殿の造営が終わって、神体が仮殿(かりどの)から本殿へ遷座された正遷宮(しょうせんぐう)からちょうど1年。豊臣家としてずいぶん力が入っていたようです。(4月2日・16日参照)
4月19日 家康が参内しました。朝廷側も公家スタッフ総動員という対応です。まず、天皇の常御所(清涼殿)で三献(さんこん)のもてなし、続いて紫宸殿にも連れだってでかけました。宇喜多秀家・小早川秀秋、さらに最上義光・
佐竹義宣・長宗我部元親も参内しましたが、常御所での振舞はありません。なお、武家のメンバーは前日、豊国社にも参詣していたと思われます。
4月21日 家康は相国寺に西笑承兌(4月1日参照)をたずねています。
4月22日 家康は京都から大坂城に帰ってきました。(4月17日参照)
4月25日 細川忠興は豊後の新領地を巡検していました。(2月7日参照)この日、家康は忠興に福島正則・加藤嘉明とともに上杉攻めの先鋒を命ずる書状をだします。
28日、書状を受け取った忠興は急遽予定を変更。29日杵築(きつき・大分県)から乗船し、5月5日大坂に着いています。
4月27日 島津義弘は大坂城の家康を訪問して、内乱(3月10日参照)が落着した際の配慮を謝しました。その席で、家康は上杉氏の動向について述べ、「送った使者の返事いかんでは、みずから出陣するので、ついては、島津義弘に伏見城の留守をしてもらいたい」と頼んでいます。義弘は承引し、薩摩の兄・義久に、在京の兵では不足のため、援軍を送るよう求めました。
4月30日 この月、家康の命により閑室元佶(かんしつげんしつ)は『六韜』(りくとう)『三略』を刊行しました。(2月25日参照)『六韜』『三略』はいずれも、周の太公望の撰とされる有名な兵法書です。
5月3日 上杉景勝糾問のため会津へ派遣された使者が大坂に帰着し、徳川家康に復命しました。家康は景勝家臣・直江兼続の答書に怒り、すぐさま諸大名に会津出征を命じました。(4月1日・13日参照)
伊王野城主(栃木県那須町)伊王野(いおの)資信が、会津の情勢を家康に報じてきました。家康は資信に対し、守備を固めさせ、自ら出馬し景勝を討ち果たす決意を書き送りました。
5月6日 天皇は前田玄以の求めにより、豊国大明神の名号を宸書して与えました。(4月2日 参照)
5月7日 堀尾吉晴(越前府中城主)・生駒親正(讃岐高松城主)・中村一氏(駿河府中城主)と前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行は連署して、家康に書状を送りました。上杉景勝は田舎者で無礼なことがあっても許してやってほしい。家康自ら出馬するのは幼い豊臣秀頼を見捨てるのに等しく、せめて、あと一年出兵を延期してほしい、という請願でした。なお、吉晴・親正・一氏のことを三中老と呼ぶこともありますが、制度としての実体はありません。さらに、中村一氏はこの時病気療養中でした。
5月10日 朝廷は右大弁勧修寺光豊を大坂に派遣し、豊臣秀頼・淀殿・徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・前田玄以に匂袋を下賜しました。また、権大納言萬里小路充房を大坂に遣わして伊達政宗にもプレゼントしています。
淀殿がこの日記に登場するのは、これが最初で最後です。この記事を載せている『お湯殿の上の日記』は淀殿を「御ふくろ」と記しています。(2月16〜18日参照)
5月12日 日本に漂着したリーフデ号(3月16日参照)の船長代理として、アダムスとヨーステンが大坂城で徳川家康に謁見しました。家康は船内に積載してあった猩々皮や具足などを売却させ帰国させようとしました。アダムスは来日した最初のイギリス人で、その後も日本にとどまり、三浦按針(あんじん・水先案内の意味)と称し、家康の外交顧問として活躍しました。なお、リーフデ号は関東に回航される途中、座礁し沈没してしまいます。
5月15日 5月から6月にかけて、主要大名たちがぞくぞく上方に集結してきた時期に、自領に帰っていった有力大名がいます。加藤清正です。清正は、家康の出馬が政情不安を呼び起こすと考え、会津遠征に強く反対しました。しかし、かえって家康から、清正は家康の内縁であるので京都守護のため伏見に留まってほしいが、九州の情勢も心許ないので、急ぎ帰城せよ」と勧められ、会津遠征に同行することもかなわず、熊本に帰ったのでした。なお、この年に熊本城の天守が完成しています。
5月17日 前田利長の母、芳春院が人質として伏見をたち江戸に向かいました。(1月23・24日参照)出発にあたり、芳春院は「侍は家をたてることが第一である。自分は年をとっているし、覚悟もできている。この母を思うがために、家をつぶすことがあってはならない。つまる所は我らをば捨てよ」と利長に伝言させたといいます。彼女が人質の境遇をまぬがれたのは、1614年6月、68歳の時でした。同年5月には利長が没し、江戸から加賀に帰った芳春院が真っ先にしたことは、息子・利長の墓参りでした。
5月19日 日本に強制連行されていた姜こう(きょうこう)が2年8ヶ月ぶりに帰国し、釜山の地を踏みました。朝鮮との国交回復推進策の一環です。(2月23日参照)姜こうは朱子学者、1597年9月、藤堂高虎軍に捕まり、日本での幽閉生活を余儀なくされました。しかし、その間、藤原惺窩(せいか)らと交流。惺窩はその影響で仏教をすて儒学者として世にでることとなり、徳川家康にも重用されました。なお、姜こうは帰国して『看羊録』を著し、日本の内情を朝鮮に伝えています。
5月20日 徳川家康は薩摩の島津忠恒(家久)へ返書を送り、庄内の内乱に関わる国元の仕置が終了したら、速やかに上洛するよううながしました。(3月10日参照)
5月21日 冷泉為満が徳川家康への女房奉書を奉じて大坂にくだりました。女房奉書は天皇側近の女官が天皇の意をくんで発給する仮名書きの文書です。冷泉為満は5月8日にも大坂に出かけ、家康に面会しています。この際、家康から朝廷に献上するヨーロッパ製のガラス酒器を預かりました。この酒器は18日披露され、天皇はお喜びになり、女房奉書を遣わすことになったのです。なお、この酒器をみた山科言経は「言語道断」と日記に書き記しています。
5月25日 徳川家康は石清水八幡宮(京都府八幡市)社務職の廻番について定めるとともに、 石清水八幡宮関係者に土地を寄進しています。なお、家康の側室・お亀の方は岩清水 八幡宮の神職清水(志水)家の娘でしたから(3月7日参照)、7月17日に出される「内府違いの条々」で「内縁の馳走をもって、八幡の検地を免れさせた」と糾弾されることになります。
5月28日 豊臣秀頼の命により、三宝院義演は大坂城内で大般若経を転読しました。(2月16日・4月5日参照)
5月29日 豊臣秀頼の命により、園城寺(大津市)勧学院の客殿が再建されました。園城寺は三井寺の名でも親しまれている天台宗の中核寺院のひとつ。延暦寺が山門、園城寺は寺門と呼ばれていました。1595年、園城寺は秀吉から突如破却を命じられ、1598年、秀吉の亡くなる前日、再建が認められました。客殿工事の奉行は毛利輝元で、襖絵は狩野永徳の嫡男、光信が筆をとりました。なお、園城寺金堂も、高台院(秀吉の正室・お禰)の寄進により、前年の12月1日に再建されています。奉行は毛利輝元でした。
6月2日 徳川家康は本多康重(上野・白井城主・2万石)ら関東の諸将に会津出兵の期日を7月下旬と告げ、油断無く出陣の準備するよう命じました。
6月6日 徳川家康は諸将を大坂城西の丸に集め、会津への進路を議論しました。家康・秀忠父子は白河口、佐竹義宣は仙道口、伊達政宗は伊達・信夫口、最上義光と仙北(最上川以北)の諸将は米沢口、前田利長・堀 秀治・村上義明(よしあきら)・溝口秀勝は越後口から、一斉に会津若松へなだれ込む計画をたてたのです。
6月8日 朝廷は勧修寺晴豊を大坂に派遣し、徳川家康の会津出馬をねぎらい、さらし百反を下賜しました。
6月10日 徳川家康出陣の報が会津にとどきます。上杉景勝は部下の将士を上杉謙信の菩提所雲洞庵に集め「この度の合戦は上杉家の興亡を賭したものであり、戦場での逃亡は上杉家の家名を汚すので、覚悟なき者には遠慮なく暇を与える」と宣言しました。諸将はみな血判誓詞を景勝によせ、対家康戦の評定をしました。
6月13日 陸奥で地震がありました。
6月14日 伊達政宗・最上義光・佐竹義宣は大坂を発って帰国しました。
徳川家康は越後の溝口秀勝・村上義明に書状を送りました。全力をあげて上杉景勝の本拠地・会津を攻めることになるので、上杉領の佐渡や庄内への出兵はひかえるように、という内容です。溝口氏はもともと高富町の大桑(おおが)に住み美濃守護・土岐氏に仕えた一族です。秀勝の父の代に、愛知県稲沢市に移り、秀勝もそこで生まれました。当時、溝口秀勝は新発田城で6万石、村上義明は村上城で9万石を領していました。
6月15日 豊臣秀頼は大坂城内西の丸の徳川家康をたずねました。この時、秀頼から家康に、正宗の脇指、肩衝(かたつき)茶入、茶壺、軍資金として黄金2万両・米2万石が与えられました。
豊臣三奉行(増田・長束・前田)は、尾張の兼松正吉らに7月10日以前に出陣するのを禁じています。ぎりぎりまで、武力衝突を回避しようとしたのです。
6月16日 徳川家康は大坂を出発、伏見城に入りました。
伊達政宗・最上義光・佐竹義宣は伏見を発って帰国。前後して東下した主要武将は福島正則・池田輝政・細川忠興・黒田長政・浅野幸長・加藤嘉明・京極高知・藤堂高虎・山内一豊・寺澤広高らで兵数5万5千人。東海道に所領をもつ大名たちは東海道ルートをとりますが、丹後に所領をもつ細川忠興は東山道を使っています。
6月17日 徳川家康は鳥居元忠・内藤家長、松平家忠に伏見城の留守役を、木下勝俊(1月3日参照)には伏見城松の丸守備を命じました。家康は元忠に「この城は太閤が精魂こめ作ったもので、もし戦になり鉄砲の玉がきれるようなことがあったら、本丸天守にある金銀を玉に鋳なおして撃て」と語ったといいます。
6月18日 徳川家康は伏見城を発しました。途中、大津で京極高次から午餐の饗応をうけ、近江・石部に宿泊しました。水口城主・長束正家も挨拶にでかけ、明朝、鉄砲二百挺の進上と城中での饗応を申し入れました。正家が帰ったあと、家康は急遽出発。突然のことで、当初家康につきしたがったのは、槍2人・長刀1人、御走衆20人にすぎませんでした。水口を過ぎ、家康は正家に使者を派遣して、違約を謝りました。
6月19日 徳川家康の急な行動に、長束正家はあわてて後を追いかけます。(6月18日参照)ようやく、昼ごろに土山(滋賀県)で家康に対面することができました。
家康はその後夜を徹して鈴鹿峠を越え、伊勢・関に着きました。家康の行動は、長束正家に不審を抱いたためとか佐和山城主・石田三成の襲撃計画を知ったからともいいますが、ほんとのことはよくわかっていません。
江戸城の徳川秀忠は諸将に出陣を命じました。先鋒は榊原康政です。
6月20日 徳川家康は伊勢・四日市に到着しました。桑名城主・氏家行広が接待を申し出ますが、家康は断り、海路三河に向かうことにしました。上船したのは、女性10余人と小姓10人、残りは、陸路で吉田(愛知県豊橋市)をめざしました。行広は信長に仕えた美濃三人衆のひとり氏家卜全の息子です。1590年から桑名城主として2万2千石を領していました。
この日、石田三成は直江兼続に書状を送り、家康の出馬を報じ、来月当初には三成自身が大坂に入ると伝えたともいいますが、信憑性は低いようです。
6月21日 徳川家康は三河・佐久島に着きました。領主、田中吉政が家康を饗応しました。田中吉政は近江出身で、信長・秀吉・豊臣秀次に仕えた人物です。秀次が処刑された時、秀次の行状を逐一秀吉に報告していたという理由で加増され、岡崎城10万石の領主におさまっていました。
水野忠重(刈谷城主)も家康に面会しています。
6月22日 徳川家康は三河・吉田(豊橋市)に到着しました。家康は吉田城主池田輝政の饗応をうけ、白須賀に宿泊しました。輝政は信長に仕えた池田恒興の二男です。1585年から1590年まで岐阜城主でした。その後、三河・吉田に転封となり、15万2千石を領していました。
徳川家康の二男、結城秀康の先鋒が大田原(栃木県)に到着しました。徳川秀忠は大田原晴清に命じ、会津街道を封鎖させました。
6月23日 徳川家康は浜松に到着しました。浜松城主・堀尾忠氏が家康を饗応しています。忠氏は吉晴の二男で、12万石を領していました。吉晴には隠居料として越前府中で5万石が与えられています。
6月24日 徳川家康は遠江・中山に着き、掛川城主(5万石)山内一豊の饗応をうけました。一豊は愛知県木曽川町出身。奥さんがへそくりで馬を買い与えたというエピソードで有名ですが、信憑性は高くありません。
家康は駿河・島田に宿泊しました。
6月25日 徳川家康は駿河・丸子に到着しました。家康は家臣を府中の領主・中村一氏に派遣しました。家康は一氏の病気を疑っていたのです。一氏は自ら歩けない状態で、家臣に背負われて家康の使者と対面します。一氏は嫡男一忠が幼いため、弟・一栄を家康に従軍させることを申し出ました。
家康は清見寺に宿泊しています。
6月26日 徳川家康は三島で泊まっています。
6月27日 徳川家康は小田原で宿泊しました。
6月28日 徳川家康は藤沢で宿泊しました。
6月29日 徳川家康は鎌倉鶴岡八幡宮に詣で、戦勝を祈りました。また、江ノ島弁天・称名寺も見物し、鎌倉幕府を開いた源頼朝ゆかりの旧跡をたずねました。
家康は東下の道すがら、軍事にはいささかも心をとめず、朝夕ただ鷹の手当をしていたと伝えられています。
6月30日 関ヶ原合戦ぎりぎりまで、徳川家康は諸大名たちとの政略結婚をおしすすめています。家康は松平康直(1593年没)の娘を養女として、遠江・横須賀城主、有馬豊氏に嫁がせ、黒田長政は蜂須賀正勝の娘を離別してまで、家康の養女(下総・保科正直の娘)を継室にしています。家康は三成と仲のよかった小西行長も懐柔しようとし、行長の嫡子に家康の孫娘(嫡男信康と信長の息女徳姫との間に生まれた)を嫁がせる約束もしたようです。
7月1日 徳川家康は鷹狩りをして、相模神奈川に到着しました。織田秀信(4月8日参照)が石田三成の勧めにより三成の居城佐和山に出かけたともいいますが、信憑性はありません。
7月2日 徳川秀忠は父・家康を武蔵・品川に迎え、ともに江戸城に入城しました。このころ、大谷吉継が垂井に到着しました。吉継は当時、敦賀、五万石の領主、ハンセン氏病を煩っていましたが、家康と景勝の争いを調停するために出陣したともいいます。吉継は垂井から三成に書状を送り、三成の嫡男・重家の同道を求めましたが、
かえって、三成から佐和山城へ招かれ、家康討伐の計画をうち明けられたのです。
7月5日 宇喜多秀家が豊国社に詣でました。この日は秀吉の命日ではありませんので(1月18日参照)、秀家がこの時点で対家康戦を覚悟していたと考える人もいます。吉川広家が、家康の東征従軍のため、出雲富田城(島根県能義郡広瀬町)を出陣しました。広家は元春(毛利元就の次男)の子、武勇をもって知られ、毛利輝元の軍事顧問といった役回りでした。広家が福島正則・黒田長政らと親しかったことが、関ヶ原合戦で毛利家が複雑な動きをすることになったのです。
7月7日 徳川家康は、江戸に集まった諸将を招いて、7月21日を会津攻撃の期日と定め、軍令をくだしました。米沢口・越後口から押し寄せる諸将に対しても覚え書きや書状を発給しています。大谷吉継は石田三成に家康と戦わぬよう説得し続けましたが、この日断念し、佐和山から垂井にもどりました。(7月2日参照)
7月8日 徳川家康は榊原康政を先鋒とし、出陣させました。(13日説あり)
7月9日 上杉景勝、白川小峰城主芋川越前守等に同城修築を督促しました。
7月11日 大谷吉継は石田三成に与することを決断し、佐和山城にもどりました。この時、吉継は三成に、「其元は諸人に対して、ことのほか横柄(へいくわい)で、諸大名をはじめ末々の者まで、日頃からあしく取りざたしている。今度の大儀も毛利輝元・宇喜多秀家を立て、その下で事をとりはからいなさい」と忠告したといいます。
7月12日 この日、安国寺恵瓊も佐和山城に到着、石田三成・大谷吉継と対家康戦を協議しまし
た。
安国寺恵瓊は毛利家の外交顧問といった役どころ、天正元年、織田信長に会い「信長の代は五年は続くだろうが、やがて高ころびするだろう。藤吉郎(秀吉)はさりとてはの者にて候」と信長と秀吉の将来を予言したことでも知られています。
恵瓊も家康に従うため東下したともいいますが、毛利家の軍事顧問 吉川広家(7月5日参照)に先行しているのはどうも不自然な感じがします。
大坂城の増田長盛は家康家臣・永井直勝に、大谷吉継と石田三成に関して雑説があることを、通報。詳細がわかり次第さらに報告するとも述べていますが、その約束は果たされませんでした。それどころか、長束正家・前田玄以との連署状で、毛利輝元の上坂をうながすことになったのです。
7月13日 吉川広家は播磨明石に到着。安国寺恵瓊は広家に使いを派し、家康東西挟撃の策を告げました。驚いた広家は翌日、大坂城に入り、恵瓊と激論しました。
7月14日 吉川広家は毛利輝元の摂津木津邸の留守役・益田元祥と議し、家康に毛利家が三成等の挙兵に関与していないことを報告しました。島津義弘は家臣を薩摩に遣わし、在京の兵では足りないので、兄・義久に援軍を求めました。
このころから京都の町中でも天下大乱の噂話が世情にのぼるようになります。山科言経は日記に「天下雑説有之」と記しています。
7月15日 京都に残された徳川の諸将は、変をきき伏見城に籠もりました。
毛利輝元へ三奉行からの書状が届きます。(7月12日参照)、輝元は肥後熊本の加藤清正に三奉行からの連署状を添え、上坂をうながす書状を送りました。輝元は船にのって広島をたちました。
7月16日 毛利輝元が大坂に到着しました。
これより先、金森可重(長近の養子)は兵を率いて上州に入り、徳川秀忠に連絡しました。この日、秀忠は19日までに出陣すると答書しています。
7月17日 毛利輝元は大坂城西の丸から留守役・佐野綱正を追いだし、西の丸を占拠、子・秀就を本丸に送りこみました。この日、三奉行(増田・長束・前田)の連名で、家康を糾弾する「内府違いの条々」が発せられました。この写と輝元・宇喜多秀家の連署状、あるいは三奉行の連署状が全国の諸大名に送られたのです。
西軍は大坂や伏見にいる家康に従った武将たちの妻子を人質として大坂城に収監しようとしました。しかしこの作戦はうまくいきません。一番悲惨だったのは、細川忠興の夫人・ガラシャ(明智光秀の娘)のケースです。ガラシャは人質とされることをこばみ、屋敷に火を放ち自殺してしまったのです。
7月18日 ガラシャの死は丹後の細川幽斎のもとに知らされました。細川家の主力は忠興の会津攻めに従軍しています。幽斎は宮津など丹後の諸城を焼きはらい、田辺城に残る全勢力を集結させようとしました。
毛利輝元は鳥居元忠に伏見城明け渡しを求めました。元忠はこれを拒否しました。
7月19日 伏見城の留守居を徳川家康から委ねられていた島津義弘は同城に入城しようとしますが、鳥居元忠はこれも拒否しました。(4月27日参照)
西軍の伏見城攻撃がはじまりました。
徳川秀忠は江戸城を発し、会津にむかいました。
午後4時ころ、徳川家康のもとに、増田長盛の書状が届きます(7月12日参照)。
家康は、変報を先発の諸将につげています。
加賀井秀望(羽島市加賀野井出身)は、東下の途中、水野忠重(三河刈谷城主)を刺殺しましたが、同席していた堀尾吉晴(越前府中城主)に斬り殺されてしまいました。秀望を石田三成の放った刺客という説もありますが、ほんとのことはわかりません。
7月20日 加藤貞泰(美濃黒野城主)が雑説のため出陣の延期を徳川家康に告げたのに対して、家康はそれを了承し、織田秀信(岐阜城主)と相談するように返書をだしました。
西軍の小野木重次(丹波福知山城主)ら細川幽斎の田辺城を攻撃開始。
7月21日 徳川家康は江戸城を発ち、会津に向かって進軍。武蔵鳩谷に宿泊真田氏に下野犬伏で西軍からの密書が届きました。石田三成と相婿(妻どうしが姉妹)になる昌幸(信濃上田城主)と大谷吉継の娘を妻にしている信繁(幸村)は西軍、妻が家康の重臣・本多忠勝の娘であった信之が東軍につくことになり、昌幸・信繁は赤城山麓をとおり上田に向かいました。途中、信之の居城・沼田城で信之の正室に入城を拒否されています。
宇都宮に着陣した細川忠興は、大坂からの知らせで、石田三成・毛利輝元が動き出したことを知ります。忠興は豊後に残る家臣と家康にその旨を報じています。
7月22日 徳川家康は武蔵岩槻に宿泊。
京極高次(近江大津城主)は家臣山田良利を家康に人質として送っていましたが、家康は良利に密旨を含め帰国させました。
金森長近(飛騨高山城主)は西軍からの書状を開封せず、家康に進呈しました。
伊達政宗がようやく領内の大崎にたどりつきました。
宇喜多秀家の軍勢が伏見城攻撃に参戦しています。
7月23日 徳川家康は下総古河に進軍。家康は最上義光(出羽山形城主)に命じ、会津進撃を止めました。「三成・大谷吉継が才覚をもって方々に触状を発し、雑説申候条」という内容で、大坂三奉行や毛利輝元の動きについては、一切触れていません。家康はこの戦いを徳川vs豊臣という構図にしたくなかったのです。
宇喜多秀家は豊国社に詣でました。(7月5日参照)
毛利秀元・吉川広家、伏見攻めに参戦。広家としても、輝元の命とあれば、いたしかたなかったのでしょう。(7月5日参照)
7月24日 徳川家康は下野小山に着きました。家康は福島正則(尾張清須城主)に書状を送り、陣中へ招聘しています。小山会議の根回しだったのでしょうか。
家康は父・弟と別れ、東軍についた真田信之に書状を送っています。(7月21日参照)
7月25日 徳川家康は諸将を小山に集めました(小山会議)。家康は諸将の妻子が大坂に人質となっているので、去就は自由に任せるといい放ちましたが、福島正則の提唱により、豊臣恩顧の諸大名は一致結束して豊臣家を守るため三成らを討つことに決まりました。
また、山内一豊(遠見掛川城主)の提案により、東海道筋の大名は居城を家康に引き渡すことになりました。家康は二男・結城秀康(下総結城城主)を会津口の守将として残し、西上することにしました。
家康は水野忠重の死を知り、水野家家臣に忌慰の書を送り、勝成に水野家を嗣がせることにしました。(7月19日参照)
7月26日 徳川家康は京極高次(近江大津城主)、堀 秀治(越後春日山城主)に西上をつげました。前田利長(加賀金沢城主)は丹羽長重(加賀小松城主)攻撃のため、出陣しました。
毛利勢は近江・瀬田を確保しました。
7月27日 徳川家康は古田織部を佐竹義宣(常陸水戸城主)へ派遣しました。石田三成と親しかった義宣の行動に疑いの念をいだいていたからです。織部は義宣のお茶の先生でした。
西軍による田辺城攻撃をきき、智仁親王は細川幽斎に開城を奨めました。幽斎の文学的才能を惜しんでのことです。(1月25日・7月18日参照)この日、幽斎はこれを断り、「古今集証明状」および「和歌」を親王に、「源氏物語抄」・「二十一代集」を朝廷に献上しました。
7月28日 徳川家康は石川貞清(尾張犬山城主)が西軍に応じ、木曾口を確保したという報告をきき、もと美濃苗木城主・遠山友政に撹乱するよう命じました。
7月29日 徳川家康は最上義光(出羽山形城主)に西上をつげ、秀忠と対上杉氏の戦略を相談するよう申し送りました。家康はこの日の書状で、敵が石田三成・大谷吉継でなく、大坂奉行衆(増田・長束・前田)であることを正式に認めています。
家康は遠藤慶隆(美濃小原城主)に書状を送り、旧領・郡上八幡(美濃)を与える約束をしました。この時点では、稲葉貞通が郡上八幡城主でした。
家康は西上中の黒田長政(豊前中津城主)を呼び戻しました。敵が大坂奉行衆となったことで、福島正則が黒田長政を誘い西軍に与するのを恐れたからです。家康は長政に長久手合戦で着用した甲冑などを贈り、再び西上させています。
石田三成がいよいよ表舞台に登場、伏見攻めに参陣しました。
7月30日 徳川家康は藤堂高虎(伊予板島城主)に書状を送り、福島正則(尾張清須城主)・池田輝政(三河吉田城主)・田中吉政(三河岡崎城主)と相談して、道路のメンテナンスを命じました。大軍がスムーズに進軍できるようにです。
石田三成は真田昌幸(7月21日参照)に書状を送りました。昌幸が計画をぎりぎりまで知らされなかったことに不満を述べたのに対し、謀がもれるのを恐れたためだと釈明、上方の形勢を報告し、来春までに関東に出撃すると申し送っています。関ヶ原合戦に関して、三成が発した書として確かなものは、実はこれが最初のものです。
7月31日 金沢を出陣した前田利長は丹羽長重の守備する小松城攻略を断念、南下 してもと小早川秀秋の家臣・山口正弘の大聖寺城を攻撃しました。
大坂城に毛利輝元・宇喜多秀家・石田三成・三奉行(増田・長束・前田)が集結しました。六人の連署状で、木下利房(若狭高浜城主)に、前田利長に対抗するため、青木一矩 (かずのり)の越前・北庄城赴援を命じました。利房の兄、木下勝俊(若狭小浜城主)も動 員されています。さらに、大谷吉継(敦賀城主)・京極高次(大津城主)・脇坂安治(淡路 城主)等が西軍の北陸攻略軍として控えていました。
脇坂安治の子、安元が徳川家康の側近・山岡道阿弥に書状を送り、家康はこの日返書 をだしました。家康は木曾義昌の旧臣に挙兵させようとしました。(7月28日参照)
8月1日 伏見城落城、鳥居元忠・松平家忠らは自刃しました。
8月2日 毛利輝元は豊国社に神楽を奏しました。高台院もこれに詣でています。ドラマの世界 で高台院は家康シンパを演じますが、ほんとのことはわかりません。木下利房宛連署状(8月1日)と同様6人の連署状で、真田昌幸(信濃上田城主)に 畿内の情勢をつげています。その中で、伏見城落城を宣伝し、田辺城陥落も目前と記してい ますが、細川幽斎の奮闘は続いています。(7月18・20日参照)徳川家康は伊達政宗・森 忠政(信濃川中島城主・2月1日参照)への書状で、会津 方面に秀忠を残し、自らは清須まで近々出陣すると報じました。
越後では旧領主だった上杉氏に扇動され、神官・僧侶たちが中核となって各地で農民 一揆をおこしました。この日、堀 直寄(直政の子)は上杉氏の武将・松本伊豆守等が指揮 する一揆軍を破っています。(3月4・5日参照)
8月3日 豊臣秀頼は豊国社に湯立神楽を奏しています。加藤貞泰(美濃黒野城主)は、病気の弟・光直を人質として徳川家康に差し出しまし た。家康はこれを褒すとともに、近日中に上洛することを貞泰に伝えています。なお、美濃 地方の武将たちは、織田秀信(岐阜城主)が西軍に与したことで、大半が西軍になりまし た。貞泰は犬山城守備を命じられることになります。前田利長は大聖寺城を攻め陥しました。(8月1日参照)伊達政宗は井伊直政等に書状をおくり、大坂の妻子を捨て家康に忠誠を誓うととも に、西上を後にし、会津攻略にとりかかるよう要請しました。
8月4日 徳川家康は浅野幸長(甲斐府中城主)・福島正則(尾張清須城主)・池田輝政(三河 吉田城主)・九鬼守隆(志摩鳥羽城主)・細川忠興(丹後宮津城主)・加藤嘉明(伊予松山城 主)・金森可重(飛騨高山城主長近の養子)・中村一栄(駿河府中城主一氏の弟・6月25日参 照)・市橋長勝(美濃今尾城主)らに書状を送り、井伊直政を先鋒として派遣するので、直政の 指示に従うよう申し送りました。大量の書状を送った後、家康はようやく小山をあとにした のです。
大坂三奉行のひとり前田玄以が表舞台から退きます。病気だったようで、朝廷も玄以 の病状を心配しています。
8月5日 西軍の本格的な東方展開作戦がこの日からスタートします。近江・瀬田に陣を敷いて いた毛利秀元・吉川広家は、熊谷直盛(豊後安岐城主)等に守備を委ね、長束正家・安国寺 恵瓊とともに、尾張侵攻のため、伊勢に入りました。石田三成は佐和山城に戻っています。 徳川家康は秀忠を宇都宮に留め、江戸城に帰城しました。
前田利長は金津に進み、北庄城の青木一矩に使者を遣わし、家康帰属をすすめました。これに対し、大谷吉継(越前敦賀城主)は、越前救援のため、脇坂安治らとともに敦賀を 出発、別働隊を海路・金沢城に向かわせるという偽情報を前田方に流しました。あわてた前 田利長は兵をふたてに分け、利長は金沢城にもどり、別働隊を丹羽長重の小松城に向かわせることにしました。(8月1・3日参照)
8月7日 石田三成は佐竹義宣(常陸水戸城主)に書状を送り、上方の情勢を報告し、家康が西 上すれば、尾張と三河の間で討ち果たす計画である、と伝えたともいいます。徳川家康は書状を伊達政宗に送り、秀忠を宇都宮に置き佐竹義宣と談合し会津へ進撃 させる計画を告げました。しかし、佐竹義宣はいっこうに動くそぶりをみせませんでした。
家康は堀 直寄に書状を送り、上杉方の一揆をうち破ったことを褒しました。(8月2日参照)
家康は加藤貞泰に再度書状を送り、光直を差し出したことを褒めました。(8月3日 参照)
8月8日 徳川家康は書状を黒田長政(豊前中津城主)に遣わしました。吉川広家(出雲富田城 主・7月5日参照)が長政を頼り毛利家の立場を弁明したのに答えたもので、家康は毛利輝 元を兄弟のように思っていたのに、今度の事で不審を抱いたが、輝元じしん御存知なかった のを知り満足した、という内容です。関ヶ原本戦での毛利軍傍観はこの時伏線が張られたの です。なお、吉川広家は、黒田長政や榊原康政(家康家臣)を頼り、直接、家康と交渉していません。その事が、毛利家の戦後処分を重くした原因でもありました。本多正純は黒田長政に対し、井伊直政が病のため本多忠勝が先鋒として出陣すること をつげています。小松近郊の浅井畷で、前田軍別働隊と丹羽長重(小松城主)が戦いました。前田軍は 苦戦を強いられました。(8月5日参照)
8月9日 一柳直盛は黒田城(木曽川町)に帰城しました。小川祐忠(伊予今治城主)は直盛に 西軍に与するようすすめましたが、直盛は首を振りませんでした。
8月10日 家康の会津出兵中止をきいた直江兼続はこれを追撃しようとしましたが、上杉景勝が 許さず、会津若松城に帰城しました。
鳥居元忠戦死の報が、徳川家康に届きます。家康は人前をはばからず西方を向きしばし涙したといいます。
前田利長は金沢に戻り、丹羽長重に対する戦勝を家康に報じました。ほんとに勝利と いえるかは疑問ですが(8月8日参照)。前田利長は金沢に留まり、再び出陣するのは9月 12日になってからでした。
8月11日 石田三成は大垣に入城しました。(10日説もあります)城主・伊藤盛正は関ヶ原合 戦後、加賀・前田家に仕えています。伊達政宗は上杉景勝に備え、家臣・片倉景綱らに白石城(宮城県白石市・奥州街道の 要衝)を修築させています。
8月12日 徳川家康は井伊直政・本多忠勝に書状を送り、西軍として犬山城に籠城しているものの、人質を提出してきた加藤貞泰(美濃黒野城主)への対処を福島正則(尾張清須城主)と 協議するよう伝えました。(8月3・7日参照)
家康は8月3日付伊達政宗の書状に応え、福島正則等の熱心な意見で江戸に帰城したことを釈明しました。
家康は細川忠興(丹後宮津城主)と加藤清正(肥後熊本城主)に書状を送り、それぞれ但馬と肥後・筑後を与えると約束しています。
8月13日 毛利輝元は増田長盛(大和郡山城主)・宇喜多秀家(備前岡山城主)らに伊勢出陣を命じました。
石田三成は、曼荼羅寺(愛知県江南市)に禁札をくだしています。徳川家康は東軍先鋒隊への使者として村越直吉を選び、直吉はこの日の夜、江戸を出発しました。
徳川秀忠は、宇都宮から浅野幸長(甲斐府中城主)・一柳直盛(尾張黒田城主)に書状を送り、速やかに西上することを伝えています。
8月14日 東軍先発の諸将は清須に会集しました。清須に集結した東軍のメンバーは福島正則 (清須城主)・池田輝政(三河吉田城主)・黒田長政(豊前中津城主)・浅野幸長(甲斐府中 城主)・加藤嘉明(伊予松前城主)・細川忠興(丹後宮津城主)・藤堂高虎(伊予板島城主)・ 生駒一正(讃岐高松城主)・桑山元晴(紀伊和歌山城主重晴の子)・田中吉政(三河岡崎城 主)・一柳直盛(尾張黒田城主)・堀尾忠氏(遠見掛川城主)・山内一豊(遠見掛川城主)・有 馬豊氏(遠見横須賀城主)らです。
やや遅れて、家康から軍監として本多忠勝・井伊直政も派遣 されてきました。伊達政宗は家康が江戸城に退いたのを知り、白石城から兵を収めて、北目城にもどりました。(8月11日参照)
8月15日 徳川家康の依頼で挙兵した木曾義昌の旧臣(山村良勝・千村良重)救援のため、家康 は、京極高知(信濃飯田城主)・石川康長(信濃松本城主)に出兵を命じました。(8月1 日参照)
西軍の田辺城攻め(守将細川幽斎)は膠着状態になり、西軍はこの日から砲撃を中心 にしたものにきりかえました。(7月20日参照)
宇喜多秀家(備前岡山城主)は大坂をでて伊勢に向かいました。(8月13日参照)
8月16日 朝廷は権大納言広橋兼勝・参議勧修寺光豊を大坂に派遣し、豊臣秀頼に徳川家康と講 和するように勧めました。
これより先、西軍は飛騨高山城を攻めました。城主金森長近の養子・可重は、遠藤慶 隆(美濃小原城主)と協力して、これを撃退しています。この日、徳川家康は可重の報告を うけ、その功を褒めています。
8月17日 黒田長政(豊前中津城主)は、吉川広家(毛利輝元家臣)に書状を送り、徳川家康は 毛利輝元がなりゆきで西軍に与したにすぎないことを理解している旨を伝えました。(8月 8日参照)
東軍の徳永寿昌(美濃高松城主)・市橋長勝(美濃今尾城主)らは、丸毛兼利の守備する福束城(岐阜県輪之内町)を攻め落としました。兼利は敗走し、大垣城に入ります。 (8月16日説もあります)
本願寺教如(東本願寺初代)は小山の陣中に徳川家康をたずね、帰路、大垣城の石田三成に路を阻まれましたが、織田秀信(岐阜城主)の斡旋により、無事、京都に帰りつきました。
8月18日 最上義光(出羽山形城主)は書状を直江兼続(上杉景勝家臣)に送り、上杉景勝に対 し異心のないことを誓い、長子・義康を人質にして和の斡旋をこいました。
清須に東軍の先鋒が集結し数日がすぎていました。(8月14日参照)本多忠勝、井伊直政は徳川家康に出馬要請しますが、いっこうに返事がきません。城内では、家康に対す る不審もつのり、福島正則(尾張清須城主)と池田輝政(三河吉田城主)は口論するさまで した。
8月19日 村越直吉が清須城に着きます。(8月13日参照)東軍諸将の不満に対して、直吉は 次のように答えました。「(家康の)御出馬有ましきにてはなく候へども、各共(清須城の 諸将)手出し(動き)なく故に御出馬無く候、手出しさえあれば、急速に御出馬にて候はん」 この返答に、本多忠勝・井伊直政は冷や汗をかいたといいますが、福島正則は扇を広げ、直 吉の顔を二三度あおぎ、「もっとも」とうなずいたのです。東軍の諸将は家康の命がなく、 勝手に戦うのは軍令違反になると懸念していたのです。
東軍の徳永寿昌(美濃高松城主)・市橋長勝(美濃今尾城主)らは、高木盛兼の高須 城(岐阜県海津町)を攻め落としました。これで、南濃の大部分は東軍の配下になり、大 垣・岐阜方面と伊勢を分断することができたのです。
8月20日 分部光嘉(伊勢上野城主)・富田信高(伊勢阿濃津城主)らは小山会議のあと、伊勢 に戻り
ました。西軍は伊勢攻略に主力を投じてきたため、光嘉は上野城を放棄し、信高とと もに阿
濃津城を守備する旨を家康家臣・西尾吉次に報じました。家康はこの日、分部光嘉に 返書を
送り、近日中に出馬すると伝えました。
清須の諸将は岐阜攻めの軍議を開きました。東軍は田中吉政らを犬山城牽制にあて、 主力を二手に分け、福島正則・黒田長政・加藤嘉明らは木曽川の下流・尾起から、池田輝 政・浅野幸長らは木曽川上流の河田から進撃することになったのです。
家康は遠藤慶隆(美濃小原城主)に旧領・郡上八幡を与える約束をしています。
8月21日 徳川家康は森 忠政(信濃川中島城主・2月1日参照)に書状を送り、自らの出馬予定を26日と告げ、忠政には徳川秀忠の指揮下に加わるよう命じました。 岐阜攻めの諸将は二手にわかれて清須を進発しました。対する西軍は竹ヶ鼻城(羽島市)に杉浦五左衛門、岐阜城に織田秀信、犬山城に城主・石川貞清(石田三成の女婿)と援将稲葉貞通(美濃郡上八幡城主)・稲葉典通(貞通の長男)・加藤貞泰(美濃黒野城主・7月20日・8月3・7日参照)・関 一政(美濃多良城主)・竹中重門(美濃菩提山城主)がひかえていました。さらに、石田三成・小西行長(肥後宇土城主)は岐阜城西方の河渡方面に進出し、垂井に駐屯していた島津義弘も墨俣に陣を移し、迎撃の準備をしています。
8月22日 未明、東軍は木曽川をわたりました。福島正則らは当初、尾越で渡河する予定でしたが、西軍に阻まれ、さらに下流を渡り、竹ヶ鼻城を落としました。池田輝政らは河田をわたり、織田秀信軍を破りました。秀信が籠城作をとらず、木曽川で迎撃したことについて、秀信の未熟さによる作戦ミスともいわれますが、岐阜城は山頂部の平坦面が極端に少なく、大軍が長期籠城するのはもともと無理だったのです。
この前後、織田信雄(織田信長の二男)は不思議な動きをします。当初、信雄は西軍に応じ、旧領・尾張に入りました。しかし、織田家の威光も全く通ぜず、諸将の切り崩しに失敗し、最終的には東軍に属することになったのです。夜、村越直吉は江戸にもどり、清須の状況を家康に報告しました。(8月19日参照)
8月23日 岐阜城は東軍の一斉攻撃にさらされます。大手口を福島正則ら、瑞龍寺山から尾根伝いに浅野幸長ら、そして、かっての城主池田輝政が水の手口から攻めたのです。岐阜城はこの日のうちに落城。織田秀信は池田輝政らの助命嘆願もあり、円徳寺で剃髪、後に高野山に送られることになりました。織田信長が天下にはばたいた岐阜城が織田家嫡流、最後の晴れ舞台になったのです。藤堂高虎・黒田長政らは、攻め口がみつからず、河渡に陣していた石田勢を破り、高虎この日のうちに大垣城の西北・赤坂まで進出しています。石田勢・小西勢の撤退により、島津勢は取り残された形になり、この日のしこりが関ヶ原本戦にまで影響をおよぼしたともいいます。宇喜多秀家は伊勢攻略に参戦する予定を変更して、桑名を経由して、大垣城に入りました。
8月24日 長束正家(近江水口城主)・毛利秀元(輝元の養子)・安国寺恵瓊(毛利家外交顧問)・吉川広家(毛利家軍事顧問)・鍋島勝茂(肥前佐賀城主直茂の子)・長宗我部盛親(土佐浦戸城主)等西軍は安濃津城攻撃を開始しました。(8月20日参照)
徳川秀忠が宇都宮を出発しました。榊原康政(上野館林城主)、大久保忠隣(相模小田原城主)、酒井家次(下総臼井城主)、本多正信(相模甘縄城主)、奥平家昌(上野小幡城主)等家康家臣のほか、真田信之(上野沼田城主)・森 忠政(信濃川中島城主)・仙石秀久(信濃小諸城主)・石川康長(信濃松本城主)・日根野吉明(信濃高島城主)ら信濃の諸将がこれに従うことになりました。
岐阜城を攻略した東軍は、一部を岐阜に残し、赤坂に集結しました。
犬山城の西軍は井伊直政の誘降により、次々東軍に寝返りました。城主・石川貞清も投降しましたが、関ヶ原本戦には西軍として戦いました。(8月21日参照)
8月25日 石田三成は近江・勢多を守る熊谷直盛・垣見一直等を大垣城に移動させました。上杉景勝、本庄繁長に福島城を守らせ、伊達氏にそなえる。東軍の木曽川渡河の報が家康のもとにとどきました、家康は福島正則・池田輝政ら諸将に書状を送りその功を褒めています。
8月26日 石田三成は居城・近江・佐和山に戻りました。三成は使いを大坂に発して、毛利輝元の出馬を乞いました。紀伊金剛峰寺応其の調停により、富田信高(城主)・分部光嘉(伊勢上野城主)は安濃津城を開城しました。この戦いで、信高の妻が武装して戦ったことはよく知られています。信高、光嘉は、高野山にのぼりましたが、後に召還されています。(8月20・24日参照)
西軍は続いて松阪城の古田重勝を攻め、これを落としています。
8月27日 岐阜落城の報が家康のもとに届きました。家康は岐阜城攻めの諸将の軍功を褒め、秀忠が中山道・家康は東海道を西上するから、家康・秀忠の到着を待って、次の行動に移るよう申し送りました。また、家康は岐阜落城を最上義光(出羽山形城主)等に報じています。
8月28日 徳川家康は藤堂高虎(伊予板島城主)に軍功をほめ、西上の期日を9月1日とつげました。
徳川秀忠は上野松井田に着陣しました。秀忠は黒田長政(豊前中津城主)・一柳直盛(尾張黒田城主)に書状を送り、真田昌幸(信濃上田城主)を降ろしてから西上することをつげました。
8月29日 是より先、九鬼嘉隆の子、守隆(志摩鳥羽城主)は小山から志摩に戻ってきました。父・嘉隆は織田信長・豊臣秀吉に仕え、水軍の将として名を馳せた老将で、1597年に隠居し、家督を守隆に譲っていました。しかし、守隆が東下している間に、嘉隆は西軍に応じ、鳥羽城を奪い籠城してしまいます。そのため、守隆は畔乗古城(志摩英虞郡)を修築し入城、嘉隆ともしばしば戦っています。この日、守隆は伊勢湾に入ろうとした氏家行廣(伊勢桑名城主)の軍船を破り、西軍船の往来を阻止し、情勢を家康に報告しています。
9月1日 徳川家康は江戸城西の丸(当時、御隠居曲輪とよばれていました)を出て、西上を開始します。暦の上では「西ふさがり」でしたので、家臣の石川家成が家康に尋ねると、「西が塞がっているからあけにまいる」と挨拶し出陣したのです。この日、家康は神奈川に宿泊しました。家康は赤坂の東軍諸将に書状を送り、自らの出陣を告げ、家康の到着までは動かず、陣地を堅守するよう重ねて命じました。また、真田信幸(上野沼田城主)・堀 直寄(越後坂戸城主)への書状では、大垣城を水攻めにすると記しています。
遠藤慶隆(美濃小原城主)、金森可重(飛騨高山城主長近の養子)は郡上八幡城を攻撃しました。城主・稲葉貞通は犬山城に籠城していましたが、岐阜落城後、東軍に降りました。しかし、この情報は慶隆らには伝わってなかったのです。なお、八幡城では貞通の子、通孝が籠城し奮闘しましたが、9月2日には降伏してしまいます。
9月2日 徳川家康は藤沢に進みました。毎日のように東軍諸将へ、お手紙を書きまくっている家康でありますが、この日の福島正則(尾張清須城主)・池田輝政(三河吉田城主)宛の書状では、岐阜城攻略戦で討ち取ったおびただしい数の鼻が届いたことへのお褒めのことばで、「上下万民悦び入り候」と記しています。
徳川秀忠は小諸に着陣し、上田城主・真田昌幸(7月21日参照)を誘降しました。昌幸は応じる素振りをみせ時間をかせぎます。秀忠はまんまとその策にのせられてしまったのでした。
9月3日 徳川家康は小田原に着陣しました。小早川秀秋(筑前名島城主)の使者が家康側近、永井直勝をたずねてきました。家康は「せがれ(秀秋)の申す事真儀にてなく候」と言い放ち、使者に会おうともしませんでした。
天皇は権大納言烏丸光宣を勅旨として、丹後・田辺に派遣しました。細川幽斎を諭して開城させるためです。(7月20・27日参照)
この日、大谷吉継(越前敦賀城主)は石田三成の求めに応じ、北陸方面軍の脇坂安治(淡路洲本城主)・朽木元綱(近江)・小川祐忠(伊予今治城主)・赤座吉家(越前今庄城主)などとともに、関ヶ原西南の山中に陣し、中山道をおさえました。北陸を離れた西軍のうち、京極高次は大津城にもどり、東軍に寝返ってしまいました。
9月4日 徳川家康は三島に着きました。
犬山城から郡上八幡にもどった稲葉貞通は、8月3日、遠藤慶隆(美濃小原城主)を攻撃します。前日に郡上八幡城の稲葉通孝が降伏し、すっかり安心しきっていた遠藤軍は大敗します。この日、稲葉貞通と遠藤慶隆の間に和議が成立し、両者とも関ヶ原本戦に参戦することになります。(9月1日参照)
この日、熊谷直盛(豊後安岐城主)・垣見一直(豊後豊来城主)等が大垣城に着いたともいいます。(8月25日参照)
9月5日 徳川家康は清見寺に着きました。
前田玄以(五奉行・丹波亀山城主)の病状はさらに悪化し、平癒を願って、方々へさらしなどを配っています。(8月4日参照)
徳川秀忠は真田昌幸との交渉に時間を費やしたあげく、この日からようやく上田城を攻めはじめました。(9月2日参照)
9月6日 徳川家康は駿河・島田に着きました。この日、家康が福島正則(尾張清須城主)等に送った書状で、徳川秀忠が10日前後に美濃に到着するだろうと伝えています。しかし、当の秀忠は上田城攻撃二日目で、多数の戦死者をだすありさまでした。
9月7日 徳川家康は遠州中泉に到着しました。京極高次の大津城籠城は、京極高知(高次の弟)や井伊直政(家康家臣)を介して家康に伝えられました。家康は早速、高次に書状を送り、一刻も早く出馬を急ぐと申し送ります。(9月3日参照)また、伊達政宗(陸奥岩手沢城主)・最上義光(出羽山形城主)にも書状を送り、美濃の戦況と京極高次の籠城を伝えました。
毛利秀元(輝元の養子)・吉川広家(毛利家軍事顧問)、長宗我部盛親(土佐浦戸城主)・長束正家(五奉行・近江水口城主)の諸将は伊勢路を北上し、関ヶ原西南の南宮山に陣をとりました。
加藤清正(肥後熊本城主)は本多正信(家康家臣)らに書状を送り、西軍から豊臣秀頼への忠節をつくすよう求められましたが、黒田如水(豊前中津城主長政の父)と連絡をとり、動じない旨を伝えました。
近衛信輔(前左大臣)・廣橋兼勝(権大納言)・西笑承兌(じょうたい・4月1日参照)などが集まり、東西両軍の調停を相談しました。
9月8日 徳川家康は遠江白須賀に着きました。再び、小早川秀秋(筑前名島城主)の使者が家康陣を訪れます。家康の御前へでることはありませんでしたが、家康は使者を厚遇したようです。(9月3日参照)秀秋は伏見城攻めには参加したものの、その後は病気療養と称して、伊勢と近江をいったりきたり、摩訶不思議な動きをしていました。
家康は前田利長(加賀金沢城主)に美濃の戦況と京極高次の大津籠城を告げ、速やかに出陣するよう求めました。
越後の堀親良(秀政の二男)は、上杉景勝の将、斎藤利実・柿崎景則等の一揆を下田郷に攻め壊滅させました。(8月2日参照)
石田三成(近江佐和山城主)は佐和山城から大垣城に戻ってきました。
上杉景勝(会津若松城主)は最上義光(出羽山形城主)討伐を決し、重臣・直江兼続が出陣しました。(8月18日参照)
9月9日 徳川家康は三河岡崎に着きました。高台院は豊国社に詣でています。どんな心境だったのでしょう。(1月18日参照)
西軍の毛利元康(元就の七男)・立花宗茂(筑後柳川城主)等、大津城を攻撃開始。京都の町民たちは、重箱を提げ、水筒を持ち、大津城とは目と鼻の距離にある三井寺観音堂で日夜見物するありさまでした。(9月3日参照)
徳川秀忠は上田城を攻めてみたものの、真田昌幸に翻弄され、思うようにいきません。この日、家康の使者が秀忠のもとに到着。急ぎ美濃に来会せよ、という指令を伝えます。秀忠は森 忠政(信濃川中島城主)・仙石秀久(信濃小諸城主)らを上田城の押さえとして残し、翌日から西上を再開しました。秀忠は9日間も昌幸のためにロスしたことになります。(9月2・5日参照)
9月10日 徳川家康は尾張・熱田に着きました。熱田の浜辺から5〜6町ほどの距離に九鬼嘉隆(8月29日参照)の大船一艘が見え、西の海辺4〜5カ所には九鬼船による放火の煙がたちのぼっていました。家康は藤堂高虎(伊予板島城主)に書状をおくり、11日、一宮(愛知県)に会いに来るよう伝えました。
大友吉統(よしむね)は九州のキリシタン大名として有名な宗隣の嫡子です。吉統は優柔不断な人物で、1593年、朝鮮の役での敵前逃亡により、改易、幽閉されてしまいます。1599年、吉統は恩赦で自由の身になり、関ヶ原合戦では毛利輝元(安芸広島城主)の手助けで旧領回復をめざします。この日、吉統は旧領・別府浦(別府市)で下船、布陣すると、大友氏の旧臣や農民たちが次々と集結してきました。
石田三成(近江佐和山城主)は毛利輝元に書状を送り、出馬を促しました。
9月11日 徳川家康は尾張一宮で藤堂高虎(伊予板島城主)と会い、清須城に入りました。(9 月10日参照)高虎は手廻りだけをつれ陣所から、家康の指定した一宮にむかいま す。高虎は岐阜城攻め・河渡の戦いなど(8月23日参照)を家康に報告したあと、 家康と密談しました。但し、密談の内容はわかりません。高虎は翌日、陣所にもどっ ています。
9月12日 徳川家康はこの日も清須に留まります。風邪気味だったようで薬も服用しています。 しかし、これは敵前において2日間逗留するための口実だったと考える人もいます。
石田三成は、大坂城にいた増田長盛(大和郡山城主)に長文の書状を認めました。こ んな内容です。「長束正家・安国寺恵瓊らは戦意もなく水の補給も困難な垂井の山上 に陣取り動こうともしない。貴殿ですら家康に内通しているという風評がある。人質 としている東軍諸将の妻子を数名成敗すれば敵も動揺するに違いない。毛利輝元が出 陣をとりやめたのはもっともだと思う。徳川家康が西上しない限り不要だろう。しかし、下々のものは不審がっている。」
この書状は京極高次(近江大津城主)の手に落ち、高次から家康本陣に送られたとも いいます。しかし、西軍による大津城攻略も最終段階に入り、高次にそんな余裕があ ったとも思えません。また、西軍が家康の動きを全く察知できなかったとも思えませ ん。現に、伊勢湾は九鬼嘉隆がおさえていたのですから、全くの偽文書もしくは、東 軍が自らを鼓舞するため、三成の情けない書状をつくらせたのでないかと、思われます。
前田利長は家康の要請に応え再び出陣します。(9月8日参照)
9月13日 徳川家康は岐阜に着き、織田秀信の家老・百々越前守の屋敷に入りました。この日、山形に進撃した直江兼続は、畑谷城(山形県東村山郡山辺街)を落とし、長 谷堂城(山形市)を囲みました。(9月8日参照)最上義光(出羽山形城主)は嫡 男・義康を伊達政宗の北目城(仙台市)に送り救援をもとめます。細川幽斎は勅命を奉じて、田辺城を開城しました。7月20日から2ヶ月近くもちこ たえたことになります。(9月3日参照)黒田如水(豊前中津城主長政の父)は大友吉統と石垣原で戦い、撃破しました。(9 月10日参照)徳川秀忠は下諏訪に着陣しました。前田利長(加賀金沢城主)は和睦した丹羽長重(加賀小松城主)と小松で会い、大聖寺に向かいました。
9月14日 徳川家康は夜明け前に岐阜を発し、正午ころ赤坂に着き、東軍諸将と会し、軍略をねりました。石田三成の家臣・島左近に挑発された中村一栄(駿河府中城主一氏の弟) は杭瀬川を越え進撃しますが、島左近の伏兵に逆襲され敗れました。
吉川広家(毛利輝元家臣)は使者を黒田長政(豊前中津城主)の陣営におもむかせました。長政は福島正則(尾張清須城主)と相談して、使者を井伊直政(家康家臣)・ 本多忠勝(家康家臣)に引き合わせ、家康に報告しました。直政と忠勝は吉川広家に 起請文を送っています。直政と忠勝は小早川秀秋(筑前名島城主)の家臣にも誓書を 送っています。小早川秀秋が松尾山に着陣したのもこの日です。京極高次(近江大津城主)は高台院・淀殿・金剛峰寺の応其のすすめにより、大津城 を開城しました。
午後7時ころ、西軍の主力は大垣城から関ヶ原へと動きだしました。その理由につい て諸説ありますが、家康本陣にいた板坂卜斎は「小早川秀秋謀反との風聞に仕置きい たすべきとて出られ候」と記しています。東軍の先鋒、福島正則も西に動きだし、西軍の最後尾と行軍中ぶつかるほどでした。
9月15日 午前8時ころ、関ヶ原では小雨がふりしきり、霧も深くたちこめていました。100メートル先も見えない状況の中、戦いははじまりました。正午ころまで、戦局は一進一退でしたが、松尾山に陣した小早川秀秋(筑前名島城主)の裏切りによって、大谷吉継(越前敦賀城主)陣が崩壊、吉継は自刃しました。続いて、小西行長(肥後宇土城主)・宇喜多秀家(備前岡山城主)・石田三成(近江佐和山城主)陣も崩れました。
午後2時ころ、それまで動かなかった島津義弘(薩摩)が敵中突破して伊勢に逃れ、戦いは終わりました。
南宮山に陣取った毛利勢をはじめとする西軍は最後までまったく動かず、伊勢・近江に敗走。徳川家康は大谷吉継の残営に宿泊し、伊達政宗(陸奥岩手沢城主)に戦勝を報告しています。
大友吉統は黒田如水(豊前中津城主長政の父)らに降伏しました。吉統は中津城に護送されますが、一命は助けられました。(9月10・13日参照)
9月16日 徳川家康は近江に入り、石田三成の居城佐和山(滋賀県彦根市)の南に野陣しました。
家康は近江・山城の寺院などに多数の禁札をくだしています。
東軍が佐和山城を囲みました。小早川秀秋(筑前名島城主)・脇坂安治(淡路洲本城主)・朽木元綱(近江)ら西軍からの反乱軍が主力で、井伊直政が軍監をつとめました。
遠山友政は徳川家康の命により旧領にもどり、苗木城(岐阜県中津川市)・岩村城(岐阜県岩村町)を攻めました。この日西軍の田丸具直は関ヶ原の敗戦を知り、岩村城を開城しました。この功績で友政は旧領を回復することができたのです。
最上義光の援軍要請が伊達政宗にました。政宗は叔父・政景を援軍にして山形に派遣することにしました。(9月13日参照)
9月17日 徳川家康の意をうけて、黒田長政(豊前中津城主)・福島正則(尾張清須城主)は大坂城に籠もる毛利輝元(安芸広島城主)に書状を送り、家康は輝元に対しいささかも悪く思っていないと告げました。
立花宗茂(筑後柳川城主)は大津城攻めに参戦していたため、関ヶ原本戦には参陣できませんでした。西軍敗戦を聞いた宗茂は、大坂で毛利輝元に会い籠城をすすめましたが、輝元の同意を得られず、関ヶ原から大坂にたどりついた島津義弘(薩摩)とともに船で大坂を去りました。
徳川秀忠は妻籠に着陣、関ヶ原決戦の勝報に接しました。
9月18日 徳川家康は近江八幡に着きました。家康は福島正則(尾張清須城主)・黒田長政(豊前中津城主)へ書状を送り、両者の毛利輝元(安芸広島城主)への斡旋を了承しました。(9月17日参照)
佐和山城が落城しました。石田三成の父・正継、兄・正澄は自殺しました。この時佐和山城内には金銀などの貯えは全く残っていませんでした。三成はすべてを関ヶ原合戦に投じたのです。
大垣城には福原直高(豊後荷揚城主)・熊谷直盛(豊後安岐城主)・垣見一直(豊後富来城主)らが守備していましたが、水野勝成らの調略により、内応者がでて落城しました。(17日説・23日説などもあります)
黒田如水は熊谷直盛の居城・豊後安岐城を降ろし、垣見一直の居城、富来を囲み、諭降させました。
9月19日 徳川家康は近江草津に到着しました。家康は福島正則(尾張清須城主)・池田輝政(三河吉田城主)・浅野幸長(甲斐府中城主)を京都に派遣し治安の維持につとめ、奥平信昌(上野小幡城主)には所司代の事務をおこなわせました。小早川秀秋(筑前名島城主)も入京し、高台院をたずねています。
竹中重門(美濃菩提城主)は小西行長(肥後宇土城主)を捕らえ、家康の元に送りました。行長はキリシタンでしたから、自害せず伊吹山の東に隠れていましたが、林蔵主がからめて領主・重門に進上したのです。
福島正則・黒田長政からの書状が毛利輝元にとどきました。(9月17日参照)輝元は悦び正則・長政に書状を送り、交渉係として、増田長盛(大和郡山城主)・前田玄以(丹波亀山城主)を指名しました。
9月20日 徳川家康は本丸だけかろうじて残っている大津城に入りました。家康は7日間、大津にとどまります。この日から京都の公家たちは入れ替わり立ち替わり家康に挨拶に出かけることになります。朝廷も勧修寺尹豊を遣わして、家康を慰労しました。
家康は京都・伏見にある西軍諸将の館を焼かせました。
徳川秀忠は草津に着きました。家康は秀忠が遅れたのを怒り、会おうともしませんでした。
9月20日 徳川家康は本丸だけかろうじて残っている大津城に入りました。家康は7日間、大津にとどまります。この日から京都の公家たちは入れ替わり立ち替わり家康に挨拶に出かけることになります。朝廷も勧修寺尹豊を遣わして、家康を慰労しました。
家康は京都・伏見にある西軍諸将の館を焼かせました。
徳川秀忠は草津に着きました。家康は秀忠が遅れたのを怒り、会おうともしませんでした。
9月21日 田中吉政(三河岡崎城主)は石田三成(近江佐和山城主)を伊吹山中の岩窟で捕らえました。吉政は近江出身で地理に明るく、三成とも親しかったため探索を命じられていたのです。加藤清正は宇土城(城主は小西行長)を攻めました。
9月22日 徳川家康は石田三成捕縛を知り、田中吉政の功労を褒め、吉政が召し連れて来るのを待つという書状を送りました。家康は池田輝政(三河吉田城主)・浅野幸長(甲斐府中城主)にも三成捕縛を伝えています。前田利長(加賀金沢城主)・丹羽長重(加賀小松城主)は家康に大津で謁見しました。長重は所領没収となりましたが、1603年に常陸古渡で新封を与えられました。(8月8日・9月13日参照)毛利輝元(安芸広島城主)は黒田長政(豊前中津城主)・福島正則(尾張清須城主)と井伊直政(家康家臣)・本多忠勝(家康家臣)に誓書を送り、大坂城西の丸明け渡しを表明しました。
細川忠興(丹後宮津城主)は前田玄以の亀山城を収めました。
9月23日 徳川家康は池田輝政(三河吉田城主)・福島正則(尾張清須城主)・黒田長政(豊前中津城主)・浅野幸長(甲斐府中城主)・藤堂高虎(伊予板島城主)に大坂城西の丸接収を命じました。徳川秀忠は父・家康に面会できず草津に戻っていましたが(9月20日参照)、家康家臣・榊原康政・本多正信のとりなしにより、家康に対面することができました。秀忠はこの日、伏見に着陣しています。
京都所司代・奥平信昌は京都六条に潜伏していた安国寺恵瓊(伊予)を捕縛し、大津に送りました。
9月24日 徳川家康は小早川秀秋(筑前名島城主)に書状を送り、関ヶ原の功績をほめ、今後は秀忠同様に思い粗略にあつかわないと伝えました。裏切りで名をはせた秀秋は当時24歳、精神的にも不安定で酒浸りの日々を送り、2年後に亡くなってしまいました。
石田三成(近江佐和山城主)は大津の徳川家康陣に護送されました。
9月25日 池田輝政(三河吉田城主)・福島正則(尾張清須城主)・黒田長政(豊前中津城主)・浅野幸長(甲斐府中城主)・藤堂高虎(伊予板島城主)は毛利輝元(安芸広島城主)に連署の誓書を送り、井伊直政・本多忠勝が9月14日、吉川広家(輝元家臣)に送った誓書に虚偽がないこと、家康は輝元に対して、悪意がないことを告げました。毛利輝元は大坂城西の丸を退去、木津の自邸に移り、本丸の増田長盛も居城の大和郡山に退きました。
福島正則らは大坂城に入り、本丸で豊臣秀頼に謁見しています。鍋島勝茂(肥前佐賀城主・直茂の子)は、家康家臣・井伊直政・本多正信らを頼り、家康・秀忠に謁見、謝罪しました。家康は、立花宗茂(筑後柳川城主)を攻めることを条件に許しました。
9月26日 徳川家康は、大津を発して大坂に向かい、この日淀城に泊まりました。
石田三成・小西行長・安国寺恵瓊は大津より大坂に護送されました。
9月27日 徳川家康は大坂城に入り、豊臣秀頼に謁見しました。その後、家康は西の丸に入り、秀忠を二の丸におきました。家康は翌年3月まで大坂にとどまることになります。6月16日、会津征伐のため家康が大坂城を出ておよそ100日余り、時代が家康を中心に動いていくことは誰の目からみても明らかでした。「於大坂西の丸に御座なされ候。其節天下の大名、内府公(家康)へ出仕する事、恰も太閤の時の如し。」と『戸田左門覚書』は記しています。 家康は井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信らに東軍諸将の勲功を調査するよう命じ、大久保長安・阿部正廣等に京都・畿内周辺にある西軍諸将の財物を調査し没収するよう命じました。
9月29日 石田三成・小西行長・安国寺恵瓊は車にのせられ、大坂と堺の町を引き回されました。
9月30日 徳川家康は毛利輝元(安芸広島城主)に島津氏征伐の先鋒を命じました。関ヶ原の南宮山から撤退した長束正家は居城水口城に籠城していましたが、池田長吉(近江)に攻められ、この日、正家は自刃しました。伊達政宗(陸奥岩手沢城主)のもとに、関ヶ原の勝報が届きました。
10月1日 徳川家康は石田三成・小西行長・安国寺恵瓊を車にのせ洛中を引き回し、六条河原 に斬り、長束正家の首級(9月30日参照)とあわせて三条橋にさらしました。見 物に押し掛けた群衆は数万人にのぼりました。宣教師は、あたかも首謀者であるか のように三成たちを殺害したと記録しています。三成たちを首謀者に仕立てたのは 自らの責任逃れのため西軍の諸将にとっても好都合で、家康にとっても豊臣家と西 軍のかかわりを深く追求せずに大乱の終結を宣言する政治的プロパガンダだったと いえるでしょう。直江兼続(上杉景勝家臣)は関ヶ原の敗戦をきき、長谷堂城の包囲を解いて、最上 より撤退しました(9月13日参照)。最上義光(出羽山形城主)・伊達政景(政 宗の叔父)は上杉勢を追撃します(9月16日参照)。
10月2日 山科言経・冷泉為満等は大坂に赴き、徳川家康に拝謁しています。徳川家康は増田長盛(大和郡山城主)の死を許し、所領を没収することにしまし た。長盛は、高野山にのぼりました。金1900枚、銀5000枚を出し、身命ば かりは助けられた、といいます。黒田長政(豊前中津城主)は家康の意をうけて吉川広家(毛利輝元家臣)に書状を 送り、毛利輝元の責任をとい、所領を没収し、広家には1〜2国の所領が与えられ ることを伝えました。
10月3日 黒田長政からの連絡に驚いた吉川広家は驚きます。関ヶ原本戦での毛利軍の傍観 (9月14日参照)、毛利輝元の大坂城からの撤去(9月17・25日参照)は、 家康が毛利家の責任追及しないことを前提条件にしていたからです。といっても後 のまつり、広家は福島正則(尾張清須城主)・黒田長政に書状を送り、自らに与え られる所領で毛利家が存続できるよう嘆願する方法しか残されていませんでした。関ヶ原本戦で敵中突破した島津義弘は薩摩に到着しました。義弘は兄・義久と対面 し、その後、桜島に蟄居しました。
10月4日 直江兼続(上杉景勝家臣)は米沢(山形県)まで撤退しました。(10月1日参照)
10月5日 伊達政宗は上杉景勝の領地桑折(福島県伊達郡)、黒田如水(長政の父)は毛利輝 元の領地・小倉城(福岡県)を攻めました。
10月9日 立花宗茂はともに大坂を脱出した島津義弘から薩摩行きを誘われますが断ります。 宗茂は豊後府内(大分市)から上陸、山路を越え、この日筑後柳河にもどり籠城し ました。(9月17日参照)
10月10日 徳川家康は毛利輝元の処遇を決定し、起請文を送りました。周防・長門を与え、身 命を助けるという内容です。この2ヶ国は吉川広家に与えられるはずのものでし た。(10月3日参照)毛利家は安芸・周防・長門・石見・備後・出雲・隠岐、備後等7ヶ国120万石か らわずか36万石の領主へ転落したことになります。
この日、輝元は出家し宗瑞と 号し、子秀就に家を継がせました。家康は山城鞍馬で捕らえた島津義弘の臣、木田信貞らを赦し、帰国させました。島 津義久に上洛して罪を謝罪するよう求めたのです。
10月11日 鍋島勝茂(肥前佐賀城主・直茂の子)は佐賀に戻り、西軍の敗退と立花宗茂(筑後柳川城主)攻撃を条件に徳川家康から赦免されたことを父・直茂に報告しました。(9月25日参照)
10月12日 九鬼嘉隆は西軍の敗北が決定的になると鳥羽城を棄て、和具(志摩郡答志島)に潜んでいましたが、この日、子・守隆に遺書を残して、自刃しました。(8月29日・9月10日参照)
九鬼守隆(志摩鳥羽城主)は徳川家康にみずからの戦功にかえ嘉隆の助命嘆願し、その赦しをえていたのですが、その報は嘉隆のもとに届かなかったのです。
関ヶ原本戦で傍観していた長宗我部盛親(土佐浦戸城主)は井伊直政(家康家臣)を頼り、大坂で家康に謝罪しました。しかし、死は免れたものの、所領は没収されてしまいます。その後、盛親は京都で寺小屋の師匠をして生活していましたが、大坂の陣で豊臣秀頼に招かれ入城、豊臣家と命運をともにすることになります。
10月13日 佐竹義宣(常陸水戸城主)は一族の岩城貞隆(陸奥岩城城主)とともに、上杉景勝攻略のため出陣することを、伊達政宗(陸奥岩手沢城主)・最上義光(出羽山形城主)に報じ、この日、義光はそれに賛同しました。佐竹義宣は表面上家康に従う素振りをみせながら密かに西軍を支援していたといわれています。(7月27日・8月7日参照)
1602年、義宣は領国を没収され、出羽に改易されました。徳川家康は「勢を見て兵をおこし敵となるは武の常なり。勝敗もまた命なるときは咎むべきにあらず。しかれども義宣はその心両端を持して家を全うせんとす。われこれをにくむ事景勝に過たり」と断罪したといいます。
10月14日 鍋島直茂(肥前佐賀城主)とその子・勝茂は柳川の立花宗茂攻撃のため、佐賀を出陣しました。(10月11日参照)
10月15日 徳川家康は東軍諸将の論功行賞をおこないました。福島正則は尾張清須城20万石から安芸広島城49万8千石、池田輝政は三河吉田城主15万2千石から播磨姫路城主52万石、黒田長政は豊前中津城主18万石から筑前名島城主52万3千石、細川忠興は丹後宮津城主17万石から豊前小倉城主39万5千石へ抜擢されました。また、関ヶ原本戦で活躍した松平忠吉(家康4男)も武蔵忍城10万石から尾張清須城52万石になっています。
この時点では上杉氏・島津氏らの処遇が未定で関ヶ原の戦後処理がおわるのは、先のことになりますが、最終的に家康の所領も250万石から400万石に増え、他大名を圧倒することになりました。
家康は書状を伊達政宗に送り、東軍諸将の論功行賞を終えたことと、来春には上杉攻めに出馬する予定であると報じました。
10月16日 前田玄以(丹波亀山城主)は河内天野に蟄居していましたが、この日大坂城で徳川家康に謁見し、本領を安堵されました。玄以への処遇が寛大だったのは、玄以が病気で8月以降表だった活動をしていなかったことと(8月4日・9月5日参照)、朝廷・公家対策の手腕を家康が期待していたためといわれています。
10月17日 加藤清正(肥後熊本城主)は立花宗茂(筑後柳川城主)を弁護する書状を徳川家康に送り、その旨を宗茂に告げました。清正は朝鮮の役でともに戦った宗茂にシンパシィを感じていたのです。
前田利長(加賀金沢城主)は大坂城で家康に拝謁しました。この時、利長は4万石加増されましたが、弟・利政は能登国を没収され、あわせて利長に与えられています。利政は心情的に西軍よりで、関ヶ原合戦では病気と称し全く動かなかったのです。
10月19日 細川幽斎は大坂城で徳川家康に謁見しています。(9月13日参照)
10月20日 鍋島直茂(肥前佐賀城主)・勝茂父子は立花宗茂の(筑後柳川城主)家臣、小野鎮幸 と柳川の北・江上で戦いました。(10月14日参照)宗茂も本隊を率いて鍋島軍と 戦おうとします。しかし、加藤清正(肥後熊本城主)の斡旋で徳川家康との和議を協 議中でもあり、家臣が宗茂を諫めました。(10月17日参照)直江兼続(上杉景勝家臣)は会津若松まで撤退しました。(10月1・4日参照)
10月23日 宇土城には小西行長の家臣・小西行景が籠城し、加藤清正(肥後熊本城主)と戦って いました。この日、行長とともに関ヶ原合戦に参陣した家臣が宇土に帰り着き、関ヶ 原敗戦を城内に伝えます。行景は兵士の放免を条件に自刃し、宇土城を明け渡しまし た。清正は宇土城を受け取り、立花宗茂(筑後柳川城主)が籠城する柳川に向かいま した。
10月24日 徳川家康は伊達政宗(陸奥岩手沢城主)と最上義光(出羽山形城主)に書状を送り、 来春早々、上杉景勝を成敗すると伝えました。
10月25日 この日、加藤清正(肥後熊本城主)が柳川城攻略に参陣しました。清正は柳川城を囲 んでいた鍋島直茂(肥前佐賀城主)・勝茂、黒田如水(筑前名島城主長政の父)と協 議し、立花宗茂(筑後柳川城主)が人質をだし、島津攻めの先鋒をつとめることを誓 約し、開城するよう伝えました。宗茂はそれを承諾し開城しました。徳川家康は鶴を朝廷に献上しています。
10月×日 この月の末、宇喜多秀家(元・備前岡山城主)の家臣・新藤正次が大坂の本多正純 (徳川家康家臣)を訪れました。正次の案内で秀家が潜んでいるという伊吹山山麓を 探査し、農家で秀家の脇差が発見されました。その家の婦人から持ち主は10日ほど前に死去したと知らされました。
脇差は家康のもとに届けられ、秀家探索はひとまず 幕をおろしたのです。その頃、秀家は薩摩に落ちのび、島津氏に庇護されていまし た。しかし、島津氏と家康の和議が成立した後、秀家の生存が家康に発覚していまい ます。島津忠恒・前田利長(加賀金沢城主・宇喜多秀家の正室の兄)の助命嘆願によ って、1603年、
秀家は久能山(静岡県)に幽閉され、その3年後、八丈島に流罪 となりました。1655年、秀家は病没。84歳の長寿でした。
11月2日 毛利宗瑞(輝元の入道名)は、吉川広家に周防玖珂郡3万国(山口県岩国市周辺)を与えました。(10月10日参照)関ヶ原本戦での広家の傍観が西軍敗退につながり、広家が井伊直政(徳川家康家臣)らととりかわした密約も反故にされ(9月14日参照)、毛利家は大幅な領地削減を余儀なくされました。一方、毛利家の領地は、徳川家康構想では広家に与えられるはずのものだったのも事実です。(10月3・10日参照)毛利家内での広家の立場はかなり微妙なものだったでしょう。翌年、広家は「関ヶ原始末書」を宗瑞に提出しました。その中で自らの行動を、15 82年6月、備中高松で豊臣秀吉と和睦し、織田信長の死を知ったあとも動かなかった毛利家家臣の小早川隆景・吉川元春と同質で毛利家のためと釈明しています。
11月3日 上杉景勝(会津若松城主)の最上攻撃軍はすでに会津若松にもどってきましたが(1 0月20日参照)、上杉氏の方針は最後まで戦うか和睦の道をさぐるかで揺れていました。この日、景勝は家臣の本庄繁長を上洛させ、徳川家康に謝罪することにしました。
11月5日 毛利宗瑞(輝元の入道名)は井伊直政(徳川家康家臣)に誓書を送りました。毛利家をとりつぶさず36万石の領有を認めるという寛大な処置?を感謝し、徳川氏に忠節をつくすという内容です。(10月10日参照)
11月6日 徳川家康は鍋島直茂(肥前佐賀城主)に書状を送り、柳川攻めなどの戦功を賞しました。(10月14・20日参照)
11月7日 徳川家康は公家の勧修寺晴豊・烏丸光宣・広橋兼勝を大坂に招きました。11月になって家康は少し余裕ができたのでしょう、積極的に朝廷や公家たちと接触するようになります。
11月8日 立花宗茂(元筑後柳川城主)の柳川開城後(10月25日参照)、加藤清正(肥後熊本城主)・黒田如水(筑前名島城主長政の父)・鍋島直茂(肥前佐賀城主)は一時領国にもどりましたが、再度、肥後に集まり、薩摩出兵を評定しました。それを受け清正は諸軍に先立ち出陣、この日、津奈木(熊本県芦北郡)まで進出しています。
11月9日 内裏の紫宸殿の庭で能が張行されました。早朝から多くの公家たちが集まり、能は1 1番あり、夜まで続きました。資金は徳川家康がだしたということです。
11月12日 徳川家康は黒田如水(筑前名島城主長政の父)からの報告をうけて書状を送りました。季節が厳寒にむかう時分であり、如水らの島津攻めをとりやめ年内はそれぞれ帰国するようにという命令でした。(11月8日参照)家康は如水による九州一円の席巻を懸念していたともいいます。如水も10月4日に吉川広家(毛利家家臣)に送った書状の中で、「10月まで西軍と東軍がにらみあった状況が続いていれば、中国地方まで切り従えてひと合戦しようと思っていたのに残念だ」と心情を吐露しています。論功行賞でも、家康は如水に恩賞をあたえませんでした。側近がたずねると「如水が動きは底心の知れぬ事なれば、長政(如水の子)のみ恩賞してよきぞ」と語ったともいいます。
11月13日 井伊直政(徳川家康家臣)は薩摩の島津氏に家康への謝罪を改めて要求し、黒田如水にその書状を届けるよう頼みました。公家の西洞院時慶・冷泉為満・山科言経は大坂にでかけ、徳川家康に会いました。
11月14日 公家の冷泉為満・山科言経はこの日も徳川家康に謁見し、幸若舞を見ています。(1 1月13日参照)本多忠勝(徳川家康家臣)は黒田如水(筑前名島城主長政の父)に書状を送り、九州での戦功を誉め、小袖3領・羽織2領をプレゼントしています。家康やその周辺が如水の動きにかなり気をつかっていることがわかります。(11月12・13日参照)
11月16日 吉川広家および毛利家の重臣等は黒田如水(長政の父)・長政(筑前名島城主)に誓書を送り、毛利家存続のため尽力したことを感謝するとともに、毛利家家臣一同忠誠にはげむことを誓約しました。徳川秀忠は松平忠吉(徳川家康四男)とともに大坂から上洛しました。忠吉は関ヶ原合戦で東海道先発軍に属して清須城に入り、本戦では義理の父・井伊直政(家康家臣)とともに抜けがけして先陣をきり、敵中突破をはかる島津義弘とも激戦、鉄砲傷をうけるほど勇戦しました。忠吉の活躍ぶりを家康はいたく悦び、自ら薬を取り出し、忠吉にすすめたといいます。忠吉は当時21歳、尾張清須57万国に封じられたばかりでした。
11月17日 黒田長政(筑前名島城主)は毛利家重臣たちの誓書をうけ(11月16日)、毛利宗瑞(輝元の入道名)および秀就に誓書を送りました。宗瑞が徳川家康に忠節を尽くすかぎり、長政も毛利家に対し、従来どおり懇意にするという内容です。山科言経(公家)は施薬院全宗(医者・4月17日参照)の屋敷に滞在している徳川秀忠を訪問しています。
11月18日 徳川秀忠は松平忠吉(家康四男)とともに参内しました。この時、ふたりをアシストしたのは朝廷に強いコネのある前田玄以(丹波亀山城主)で、玄以としても最後のお勤めといったところでした。(10月16日参照)。この時、忠吉は従四位下侍従に任じられています。(11月16日参照)徳川家康は黒田如水(筑前名島城主長政の父)・加藤清正(肥後熊本城主)・鍋島直茂(肥前佐賀城主)に書状を送り、柳川城などを収め、家康が人を遣わすまで、管理するよう命じました。(10月25日・11月8日・12日参照)
11月19日 徳川秀忠と松平忠吉(家康四男)は豊臣秀吉を祀る豊国社(1月3日参照)に詣でています。
11月20日 高台院(秀吉の正室・お禰)が豊国社に詣でています。(1月18日参照)
11月×日 この頃、徳川家康は徳川秀忠に、徳川家の御座所を関東におくか上方にするか意見を求めました。秀忠が「若輩の身ですから、いかようにもおとりはからいください」と返答すると、家康は機嫌よく「しからば関東に御座あって天下の政務を行はるへし」と決意したともいいます。しかし、家康はしばらく大坂・京都を離れることができず、江戸に帰りついたのは、翌年の11月5日でした。
11月22日 この日、黒田如水らに対する島津攻め中止命令がとどき、如水等は守兵を水俣(熊本県)に残し、兵をかえすことになりました。(11月12日参照)
11月27〜28日 徳川家康はこの頃病気だったようです。
11月28日 徳川家康の第9子・義直が伏見で生まれました。1607年、松平忠吉(11月16日参照)が没すると、義直は尾張清須53万国の領主となり、後名古屋に移り、尾張徳川家初代になりました。義直の母はお亀の方(3月7日参考)です。身重のお亀の方は、戦乱を避け、父が神職をしていた石清水八幡宮周辺に潜んでいたと考えられています。
11月×日 日本で太陽暦が採用されたのは1873年で、それ以前は月の満ち欠けを基準にした太陰暦が使われていました。太陰暦では、30日で1ヶ月になる(大の月)と29日で1ヶ月になる(小の月)があります。1600年は9月から11月まで3ヶ月続いて大の月で、翌年も9月から11月まで大の月です。これは大変珍しいことで、大乱の兆しであると京童たちはうわさしました。なお、当時の太陰暦は太陽暦との調和をはかるためときどき閏月を設定していました。また、11月から翌年3月まで、大坂で虚空から「ふんとう・ふんとう」と鳴く不思議な音がきかれたといいます。
11月×日 11月の下旬、黒田如水(筑前名島城主)は石垣原合戦で捕縛した大友吉統(元豊前府中城主・9月10日・13日・15日参照)を従え、大坂城に赴き、徳川家康に謁見しました。吉統は一命を助けられ、秋田実季(出羽国湊城主)に預けられることになりました。
×月×日 豊臣家の命運が定まったこの年、豊臣秀頼は8歳のおぼっちゃまにすぎませんでした。秀頼はこの年から15歳までの間に「豊国大明神」の神号を多数認めています。これは各国に分祀された豊国社やゆかりの大名たちに分け与えるためのものと考えられています。秀頼のお手本になったのは後陽成天皇の宸書だったようです。(4月2日参照)
×月×日 この年、徳川家康は高台院(秀吉の正室)に河内で1万6千石を与えています。
12月×日下旬、会津から上洛した本庄繁長(上杉景勝家臣)は、本多正信(徳川家康家臣)・榊原康政(徳川家康家臣)・西笑承兌(家康のブレーン・4月1日参照)をたより、上杉家のサバイバルをめざし奔走しました。(11月3日参照)その結果、翌年7月24日、上杉景勝は、家臣・直江兼続を従えて上洛。
8月8日、結城秀康(家康2男)に伴われ、伏見城で徳川家康に謁見、謝罪しました。8月16日には上杉家の処分がきまり、会津若松120万国から出羽米沢30万石に減封されたものの、上杉家は存続することができたのです。
12月23日 黒田長政(筑前名島城主)は島津義弘(薩摩で蟄居中)に書状を送り、井伊直政(徳川家康家臣)を仲介にして家康に謝罪するようすすめました。
島津家の戦後処理はまだしばらくかかります。島津義久(義弘の兄)・忠恒(義弘の子)は井伊直政等を頼って、家康に謝罪しますが、義弘が勝手に西軍に与したのであって、島津家としては中立だったというスタンスを崩しませんでした。1601年8月に本多正信(家康家臣)から義久と忠恒にあてて、身命と所領安堵を保証する起請文が送られました。家康家臣の起請文が反故になったのは毛利家の例もありますし、かといって無視することもできず、義久は従兄弟の忠長を上洛させました。1602年、4月、今度は徳川家康から義久と忠恒に所領安堵の書状がだされます。それをうけて、12月に忠恒が上洛、伏見城で家康に拝謁し、正式に手打ちとなりました。なお、1606年には忠恒は家康の家の字をもらい、家久と改名しています。
12月24日 伊達政宗は宮城郡千代城を再興するため縄張を開始、仙台と改めました。
関ヶ原合戦で政宗はいちはやく家康方に呼応し、家康も上杉景勝牽制のため、政宗の力量に期待していたようです。両者の間でかわされた多くの文書が残っていますが、とくに有名なのは8月22日に家康が与えた50万石を加増するという内容のもので「百万国の御墨付」ともよばれますが、実際に政宗がえた所領は2万石にすぎませんでした。
12月29日 京都で大雪がふりました。
×月×日 天下分け目の関ヶ原合戦は単に9月15日関ヶ原でおこなわれた数時間の激闘がすべてではありません。空間的にも日本国中の大名が東西両陣営に分かれ争い戦火は全国に広がりました。時系列で語るならば、少なくとも、1598年の秀吉の死去、秀吉死後のイニシアティヴをめぐる家康プラス浅野長政vs4大老プラス4奉行の軋轢、1599年の前田利家の死去という大きな流れをおさえておく必要がありますし、戦後体制が最終的に定まるのは島津氏の処遇が決定した1602年まではみておかなければなりません。
歴史の常として、勝者は膨大な記録を残すことができますが、敗者は良質な史料をあまり残せません。徳川家康が関ヶ原合戦前後に発給した大量の文書群が知られているのに対し、西軍の主要武将、とくに石田三成や宇喜多秀家に関しては、実際どのような役割を果たしたのかよくわからないのです。『関ヶ原始末記』や『関ヶ原軍記大成』など江戸時代の歴史小説は石田三成の動向を大きくあつかっていますが、それがどの程度史実を伝えているかは疑問です。限られた史料の中で、『関ヶ原日記』では石田三成vs徳川家康という構図をなるべくとらないよう試みました。だいいち、関ヶ原本戦で、石田三成本陣の笹尾山は西軍の最北端にすぎません。それだけでも、三成の位置がどのようなものだったのかわかろうというものです。
三成の役どころについては、外国人たちのほうがむしろ冷静に正直に眺めていたようです。イエズス会の宣教師は『1600年度年報補遺』の中で、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が大坂・京で引き回されるありさまを、「先頭には治部少輔が、あたかも同盟軍の首謀者かつ頭首として配置されていた」と記し、朝鮮側に残る記録でも、当初こそ三成を首謀者として描いていますが、1607年江戸を訪れた使節の記録は、はっきり毛利輝元を首謀者として記述し、三成は配下の一武将として登場するにすぎません。当時の外国人からみても明らかなフレームアップを今日まで信奉し続ける必要はさらさらないのです。
10月1日、石田三成は首謀者として処刑されてしまいますが、小西行長とともに、毛利輝元から全幅の信頼を寄せられていた安国寺恵瓊も処刑されています。9月15日の関ヶ原本戦で実際の戦闘に加わらなかった大名たちがせいぜい所領没収ですまされたことを考えると、高齢の僧籍大名をわざわざ処刑することで、毛利家が深くかかわっていたことを葬り去らねばならなかった事情がみてとれるでしょう。というものの、筆者も途中からいくぶん信憑性にかける史料も使ってしまいましたし、四国の戦況について全く触れることができませんでした。脱稿後、どうも再考しないといけない日付に気づきましたし、文章スタイルも前後でずいぶん変化してしまいました。いつか機会がありましたら、全面的にリライトしたいと考えています。最後に一年間にわたって『関ヶ原日記』をご愛読いただきましたみなさまに感謝し、ご迷惑をかけた関係者のみなさまにお詫びを申しあげながら、このファイルをセーブすることにします。
了
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